戸谷洋志「親ガチャの哲学」

三(意味レベル):「親ガチャ」を口にする子を考えてみたエッセイ。
3から5(感情ステップ):不幸論、自暴自棄、そして自分の人生を引き受ける。
 
2023年。
著者:戸谷洋志(とやひろし)、編集:新潮社。
随想、39字×15行×222頁(タイトル目次白19頁含む)。
構成スタイル:論文のような散文。
主張:啓発。
主なジャンルと要素:随想、社会、倫理、道徳(倫理+社会)。


批評「決定論と言っておけば飯を食える」
 大学の教授職に就く者には頻繁に営業の電話が掛かって来る。出版社から本を出さないかというお誘いである。出版社の編集人としては、大学の先生とのコネクションを築きつつ、そのネームを使って全国の図書館に必ず一定数を捌くことが出来る安牌な仕事である。そして大抵の要望は一つ、一般人にも分かりやすい本を書いて下さいとのことで、本屋にも卸せるようにしたいのである。大学教授の方も、本を書かないと仕事をしているように見えないので、この話に喜んで乗る。するとまあ、世間の流行を煽るような無駄な本がわんさか生産される。流行語なんかを論った本が大量に並んでいる棚を本読みなら誰でも見たことがあるだろう。
 本書も御多分に漏れず、大学の哲学の先生が哲学の振りをしながらカネを稼ぐために本を書く、ありふれた一冊である。流行語大賞の「親ガチャ」を哲学的に考察するような言い訳から、「決定論」と言っておけば皆が満足するだろうと、この五十年以上も日本哲学界はずっとこれをやり続けている病気とも言える営業である。こういう者のせいで、哲学と書いてペテンと読むのではないかと、多くの人は思っていることだろう。学問の王様が今や乞食である。
 総評を先に言えば、本の内容が薄過ぎて、論じようがない。松本人志や茂木健一郎というテレビ芸能人がツイートしたようなものを持って来て、決定論的な考え方か否かを捏ね繰り回すだけで、結論には社会弱者への保障の充実を訴え、その活動をしている著者に助成金を寄越せと言う。こうして見れば哲学かペテンかどころか政治活動家か何かと疑われはしないか。その揚げ足を取ってやろうとしても揚げ足しか無いわけで、取っても取っても落ちも着かない。
 結局本書は、親ガチャに失敗したから自分が貧乏なのだと言って社会を笑う若者に対して、頭も悪そうだから哲学を教えてやろうと著者がイジってさらに貶めようというものである。親のせいにしなければ生きていけないような弱者を社会で保障してあげなければいけませんよね、と言いつつ、著者は裏で儲け話を企んでいるわけである。

「親ガチャとは何か」
 さて、本書は読む価値も無いどころか手に取ってしまった事自体が罰ゲームのような恥ずかしい本であることは分かって頂けると思うが、それだけを述べては情けがないので、「親ガチャ」についても考察してみようと思う。
 これはニ〇一七年に流行語として認定されたらしいが、若者たちがインターネット上でこれをスラングとして冗談にしていたものを、世間の人たちは「ガチャ=ギャンブル遊び」と誤解し、親の苦労をガチャ呼ばわりするとは何事かと目くじらを立てて怒った。これを受けて、空気を読む現代っ子たちは実生活においてこの言葉を絶対に使わないし、どうして老人たちには笑えないのだろうかと、世代間のズレを感じてしまった。双方とも気付いていないのは、親ガチャが子供の苦境から生まれた言葉だと勘違いされていて、実は親の方に刺さっている事実である。バカなことを言って笑い合う若者たちの何の取り留めもないスラングの一つを、これを使えば若者のみならず社会全体を煽れると嗅ぎ付けたマスメディアが流行語に持ち上げたわけである。
 この親ガチャという言葉に釣られた自称識者たちは、本書の著者もそうだが、子供の社会的苦境をどうしたら助けてあげられるか論じ始める。親ガチャと言われて焦っているのは自分たちの方なのにだ。すなわち、痛いところを突かれた大人たちは論点を自分たちから子供に逸らし、子供にその責任を押し付けて逃げたいわけである。メディアが「親ガチャ」の「親」を追い回すと、人気取りの芸人や論者が「子」の方に話をすり替えてあげる。そうして誰も「ガチャ」の話をしない。
 「親ガチャ」という言葉に問題があるとするならばどう見ても「親」ではなく「ガチャ」だろう。これは「くじ」ではない。当たりくじ等のギャンブルも大昔からあったが「親くじ」と言われたことは無い。カプセルトイのガチャガチャ(ガシャポン派もいるようだが)も凡そ六十年の歴史があるが、六十年前に「親ガチャ」と呼ばれたことも無い。すなわち今回の「ガチャ」は昨今に現れたスマートフォンのキャラクター集めゲームにおけるガチャのことである。ゲームのプレイヤーはゲーム内通貨を支払ってゲーム内のガチャを回すと多数のキャラクターの中からランダム(に見せかけた機械プログラム)によって一つをゲットすることが出来る。そして手に入るほとんど(ゲームにもよるが大抵99%)のキャラクターがハズレなのである。恐らく識者や論者たちはこの手のゲームをやらずに「親ガチャ」を論じようとして「ガチャ」を語れないのだ。
 これらスマホゲーのガチャには大きな特徴がある。それはアタリのキャラクターを100%手に入れることが可能なのである。1%しかないアタリをどのようにして100%にするのか。それは当たるまでカネを積むのである。ゲーム内通貨は現実の金銭で買える。ハズレにハズレてゲーム内通貨が尽きたら換金(購入)するのである。これは「ギャンブルではない」。値札の付いていない商品をゲーム運営会社の言い値で買っているだけである。そしてその言い値は、運が良ければ百円で買えるかもしれないとギャンブルを歌いつつ、大凡百倍の一万円になるよう設定されている。アタリの上級キャラクターは随時更新されて、プレイヤーはその毎にカネを搾り取られる。
 昨今の若者たちは、現代社会を見抜いて、このガチャに例えているのである。つまり、ギャンブルで得られる自分の親がハズレであったことを「親ガチャ」と呼んでいるのではなく、99%がハズレで、その1%あるかどうかも分からないアタリを引くためには、社会の運営者の言い値までカネを上納しなければならないシステムについて「親ガチャ」と例えているのである。すなわち二世三世の政治家や、官僚や、芸能人など、社会の有利に立てる「上級国民」(これもまた流行語)をアタリにして、それにカネを貢がなければ生きていけない自分たちのハズレ社会を揶揄しているわけである。
 それならば「親ガチャ」ではなく「ガチャ社会」とか「独裁共産主義」とか言えば良いのではないか。というとそうではない。あくまでこのガチャはキャラクターを引き当てるものであり、星5とかレアと呼ばれる上級職のキャラクターを集めるものだ。これを知らない全ての論者が「例え親ガチャに失敗しても様々な努力で人生を巻き返してゆけば良い」などと筋違いの説教を垂れているが、そもそもガチャを引くためのゲームであって、上級キャラクターを引き当てればそれだけで勝てるように出来ている。
 例えば、政治家になれたらこの社会の勝利まで得られるように社会のルールが出来ている。勝ちどころか勝負のルールを決める権利を得るのだ。つまり政治家になることがそのまま勝ちになり、その後の政治ゲームは勝利に酔いしれるご褒美タイムである。ただしそれは次の選挙までの間である。偶に政治とは別の分野から支持を受けて国会議員になる人気者が出るが、そのステータスを独占し続けるために政党という組織があるわけで、強い政党に所属して上納金を納め続けなければならない。政党は自分たちが次も勝てるようにルールを支配し、この利益を自分たちの子に受け継がせる。これが「親ガチャ」である。
 つまり、この社会に参加する前向きな意志があるならば親ガチャを引かなければならない。それでいてこの親ガチャにはアタリがほぼ入っていないのである。だからそれに気づいた子供は笑ってしまうのだ。自分だけがハズレを引いて不幸になっていたら笑えはしない。子供の中には親から虐待を受けて真剣に悩むことから「親ガチャに失敗した」と言いふらす者もいるらしいが、それは親ガチャではない。なぜならガチャはカネを積めば100%アタリを引けるからである。しかし毒親の性格は残念ながらカネを積んでも治らない。親ガチャというものは、資本主義社会における貧乏に限定され、親ガチャに失敗したから貧乏なのか、貧乏だから親ガチャに失敗するのか、どちらにしろこれが今の日本の社会なのである。
 ゆえに、老人世代は「親ガチャ」というスラングを大変に嫌がる。この百年間をカネに翻弄されて生きて来た彼らは、カネを稼ぐことが誠実に働くことなのだと自分を騙して今日まで走って来た。まさかその自分の一生を親ガチャであると子からバカにされる日が来ようとは思っていなかったのである。馬の目の前に人参をぶら下げるが如く、自分の目の前にカネがちらついて、馬車馬のように働いて稼ぐつもりが労働もカネも搾取されて貧乏になっている。それなのに自分たちが社会の支配層から騙されていることを認める勇気がない。それで「親ガチャ」は「老害」と同じようにセンシティブな言葉になってしまった。

「自分、社会、神。」
 「親ガチャ」は社会問題であって決定論の問題ではない。これについて、本書の揚げ足を取っても仕方ないと言いつつも、決定論を説明するついでに著者へ僅かながらの期待を込めて重要な間違いを指摘しておく。
 決定論というものは、神という一元に世界の全てが創造されて支配されているか、そうではないか、を問う議論である。本書にはハイデガーからの引用も見られるが、西暦一九〇〇年辺りのヨーロッパの哲学者は、崩壊する自分の国家社会において破壊と支配を繰り返すキリスト教カトリックの影響に立ち向かうべく、この決定論に答えを出さなければならなかった。簡単な言い方で説明すると、神があなたを生んだのだとカトリック僧侶が言えば、神に感謝しますと服従し、神があなたの人生を死ぬまで決めているのだとカトリック僧侶が言えば、神のために一生を捧げますと服従する、そのような生き方を教えるカトリック教会に対して、クソっ喰らえと言い返すために哲学者は生きていた。ところがこの決定論を否定することはなかなかに難しく、それゆえに今もカトリック教会が大きく存続していることになる。
 本書はこの神を、親に置き換えて、親の決定に子が服従しなければならないかという議論へと持って行こうというわけである。流石に阿呆と言うしかない。カトリック信者に言わせれば親は神ではないので、親ガチャに失敗したところで神があなたを救ってくれるでしょうと言って、それで解決してしまう。そうして親から愛されなかった子供へ、教会に来たら悩みを聞いてあげると言い、信者を獲得するのである。本著者も自己啓発サロンみたいなものを開催して助成金を欲しがっているそうだから、やっていることがカトリック教会と全く同じである。
 著者もその論理展開に無理があると分かっているのか、哲学を苦手とする読者を騙すように嘘を仕込んでいる。その嘘とは、P.29「「親ガチャ」は、自分が生まれてくる環境を、そうした「ガチャ」の偶然性になぞらえた表現です」と前置きをしつつ、P.172「親ガチャ的人生観は決定論です」と結論している。簡単に言えば、親と自分の出生は偶然だが、親ガチャは決定されている、と矛盾している。決定論者からすれば、親もガチャも偶然ではない。またアンチ決定論者からすれば、親もガチャも偶然である。そもそも自分の出生を偶然だと思えるならば、決定論に拘る本書は全くの無駄だ。
 本著者の論述の欠点はここにあり、親を神に見立てた決定論を書きたいと思えばそこしか見ておらず、全体から問題を捉える視野が足りない。「親ガチャ」の訴えを大きく捉えて社会論にするべきところが、訴える子に焦点を当てて個人的な悩み相談で解決しようと試みてしまう。その子の親への不満話を聞いてあげたところで、ガチャ型社会の問題が解決するわけではないのに。著者が社会福祉の団体か何かで活動している者であれば一人ずつでも助けようとするそのやり方でも良いが、哲学を名乗るならば全人類に究極に通じる答えを論理的に出さなければならない。本書は文系学科に多くいる育ちの良い学生が書いた個人的な卒論程度のレベルであって、人間や社会を解明してやろうとする意気込みが足りていない。
 実はハイデガーも他のほとんどの近代哲学者も、意気込みはどうであれ、社会感覚には乏しい。これは近代ヨーロッパの王政国家がキリスト教カトリックによって崩壊してしまったせいで、哲学においても自分の社会に頼ること無く論理を構築しなければならなくなったからである。例えば分かりやすく日本語の場合で考えてみると、「外人」という言葉を用いれば「日本民族以外の人間」であると簡単に定義付け出来ていたものが、国が崩壊して流入して来た移民と混血が増えてしまったら、この意味が通じなくなってしまう。「外」との境界が無くなれば社会は曖昧になり、日本では海を隔てて海外という感覚をまだ少し保てるかもしれないが、ヨーロッパでは社会が全く分からなくなってしまった。
 これが近代哲学の足枷になって、社会という言葉であれば個人の集合体とか民族の共同体とか別の説明を加えなければならず、哲学書は回りくどい言い回しや返って難しい新語が多用されて一般の人々が読める本ではなくなってしまった。さらに、社会から解き放たれた自由主義や個人主義が横行すると、全ての社会問題が個人的な悩みにされてしまって、それゆえ決定論に反論することも難しくなった。自己責任や自己主張や自己肯定などと全ての行動に自己が付き纏い、学問にさえ「私の哲学」という訳の分からない言い回しが出て来た。自分へ偶然の影響を与える他者は社会にあったものだが、社会が無くなってしまうと、他者はその外にある神という存在まで突き抜けてしまう。そのせいで問題の責任は、自己にあるか、神にあるか、という議論になってしまい、決定論はいつまでも尾を引いてしまう。これを社会の責任だと言えば、本当はそれで正しかったのに、自己責任から逃れたい言い訳をしているのではないかと罵られるようになった。それで若者たちは「社会」という言葉を使えなくなって「ガチャ社会」と言えず「親ガチャ」と言うわけである。
 本著者も日本人の意識が既に薄いのか、本の主旨は社会の安定を求めているようなのに「日本社会」という言葉を使えなくなって、人と人との「連帯」が必要だという言葉に置き換えている。言葉があやふやになり、分かり難くなり、問題を決定論で護摩化し、どんどん怪しくなる。ペテンに近づいてゆく。
 さらに著者の悪いことには、その哲学的な視野の狭さのみならず、矛盾に気付くセンスが鈍い。著者は、「親ガチャ」を口にする子が親に不満を持ちつつ厭世的である傾向を指摘すると、ついには「親が悪い」という結論を肯定してしまう。特に本書の第2章は秋葉原通り魔事件を引用して、犯人が母親から虐待を受けたことから、自暴自棄になって、通り魔をしたかのように説明されている。これは悪質な暴論としか言いようがない。つまり著者は、親から虐待を受けても静かに耐えて生きている子まで、通り魔の予備軍のように扱うわけである。秋葉原事件の犯人はその犯行の動機と理由を明かしており、確かに精神分析もされはしたが、責任が本人にあると判決されている。親ガチャ論とは全く無関係である。
 親から虐待を受けた子は、自分の子を不当に攻撃してしまう親の異常に悩んでいる。その子は親を恨みもするだろうが、親の暴走が社会生活のせいで引き起こされていて、親を責めるだけでは解決しない複雑さも分かっているはずだ。それなのに哲学の皮を被った著者がその毒親を悪の根源だと決め付けてしまえば解決の道を見失ってしまう。毒親の毒を社会のせいに出来なければ、その子は毒親を攻撃するか、遺伝子にその毒を受け継いだ自分を攻撃するか、どちらにせよ破滅するのみである。ましてやその子に「決定論的な考え方を回避すれば幸せになれる」と嘘の説教をしたところで救うことが出来るだろうか。著者は苦境の子をバカにしているのではないか。
 子は親に対してクソっ喰らえと言うのではない。同様に、哲学者も僧侶にいちいちクソっ喰らえと言いたいわけではない。そんなことは常日頃から言っているのだがどうにもならず、真に言いたい相手は、親の愚かな頭を毒してしまったこの社会や、社会を支配する組織の思想に対してである。すなわち資本主義や宗教に対して訴えたい恨みはある。街に溢れるハズレのキャラクターたちを「親ガチャ」と煽ったところでマスメディアの餌食になるだけだ。
 私も本著者のような学者もどきの一匹にクソっ喰らえと言ったところでどうにもならないことは分かっているが、本ガチャにハズレてしまった虚しさから、これを書いた。


要約。
 序章 運VS努力――人生を決めるのはどちらか (17p) 
ニ〇ニ三年度の大学入学共通テストの倫理に面白い問題が出題されて「親ガチャ」が話題になった。親ガチャとは人間の出生を電子くじの「ガチャ」に譬えた表現。人生は、親によって決まる決定論か、自分によって決まる自己責任論か。本書は、自己責任論を回避しながら責任を両立させる提案。

 第1章 「親ガチャ」とは何か (33p) 
 現代社会は親ガチャ的厭世観に覆われている。
 「親ガチャ」はニ〇一七年の流行語。自分の出生を「ガチャ」の偶然性になぞらえている。
 どの家庭に生まれてくるかは運任せであり、その運によって人生が左右される。
 お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志は、「親ガチャ」は遊び言葉であり、人生の様々な要素は全てがガチャ的であると指摘している。著者は、「親ガチャ」を引けるのは一回だけであり、ガチャを引くという主体的な行為がないまま一方的に与えられることから、「親ガチャ」を特別なガチャであると考える。
 社会学者の土井隆義は「親ガチャ」について、人生は出生から宿命として決定していて、偶然は出生に至る諸条件のみであると、決定論的に考える人生観を説明する。この人生観に至る背景は、現代社会の若者が居場所を失い、自己像を確立できなくなって、出現するという。
 脳科学者の茂木健一郎は、「当たり」と「外れ」を決めるのは自分の判断である、という。著者は、「外れ」を「当たり」だと思えというこの論を許容できない。
 作家の乙武洋匡は自身の先天性四肢欠損という障害から、みんな大なり小なり外れを引くものだから、あまりくよくよせず前向きに考えればいい、という。具体的な解決策は茂木と同じく、社会保障を充実させて「外れ」を緩和し「当たり」を「親ガチャ」以外にも多様化すればよいという。
 親ガチャの問題は親や子にあるのではなく、そう考えさせる苦境にある。解決策は社会保障を充実させて、成功者と苦境の人に連帯を作ること。しかし、成功者の金銭を苦境の人々に回せば、成功がなくなってしまうから、成功者は嫌がるだろう。

 第2章 「無敵の人」の自暴自棄 (29p) 
 P.58「親ガチャ的厭世観がもたらす絶望が他者への攻撃性となって発露する可能性がある。」
 加藤智大は、インターネット掲示板に自身のなりすましが現れて荒らされたことから居場所を奪われたように感じたため、「大きな事件」を起こして自分の存在を認めさせようと思い立ち、秋葉原にて通り魔殺人事件を起こした。彼は自らの性格を形成した要因として母親から受けた虐待に等しいしつけを挙げた。
このような犯罪者は西村博之から「無敵の人」と呼ばれる。犯人に社会的信用がないから犯罪を抑える心理的な制約が無効な上に、インターネットによって増大してしまう犯行の社会的影響力を抑えるのも困難である。それなら社会的信用を回復させればこれらの犯罪を防止できる。
 社会的信用を得られるという「希望」がなくなれば「自暴自棄型の犯罪」が増加する。
 自分の力で苦境を変えられる「希望」が失われたときの「無力感」が人々を「無敵の人」へと駆り立てる。P.72「言い換えるなら、自分の人生を引き受けることができなくなる。」
 さらに言い換えるなら、自分の人生が他者に決定されたものとして理解される。これにより自分の人生に「功績」を感じられなくなり、「責任」が無効化される。自暴自棄な犯罪は、犯行が自分のせいではないという無責任な感覚が伴っている。
 秋葉原通り魔事件の加藤も無責任だった。
 親ガチャ的厭世観も「私」の人生が決められていると思うことで自分の人生を引き受けられなくなる。この苦しみに抵抗するための、自分に世界を変えられる力があると確信できる感覚、自己効力感をもつことも難しい。
 「無敵の人」を作り出さないことと、人間をそうした加害者へと駆り立てる要因を排除することのため、対策として、社会保障を充実させて社会的信用がなくても生きていけるようにすることと、社会的包摂を促進して人々に社会的信用を取り戻させることが考えられる。この二つは基本的に対立する。

 第3章 反出生主義の衝撃 (29p) 
 親ガチャ的厭世観を前提としながらその苦境を回避するには、そもそも生まれてこなければよいのか。
 『ONE PIECE』主人公ルフィの血のつながっていない義兄であるポートガスは、周りの大人たちから浴びせられた「生まれてこないほうがよかった」という言葉を、はねのけることができた。彼を愛する仲間がいたから。
 『進撃の巨人』主人公エレン・イェーガーの腹違いの兄ジーク・イェーガーは、自分の民族まで「生まれてこないほうがよかった」と考えて出生させないようにする。自分からそう考え始めると、誰も止められない。
 南アフリカの哲学者であるデイヴィット・ベネターによって提唱された「反出生主義」はロシアンルーレットに譬えられる。親ガチャも同じく、この賭けから降りていれば「外れ」を引くことがない。
 快楽は「よい」、苦痛は「悪い」。だから苦痛がなくなることは「よい」が、しかし快楽がないことは必ずしも「悪い」とはいえない。
 生まれなければ苦痛はないのだから「よい」。快楽もないが「悪い」ことではない。つまり生まれてこない方がより「よい」。と、ベネタ―は考える。
 人生の快楽が苦痛を上回るならベネターの反出生主義に反論できるか。「ポリアンナ効果」により人は苦痛の記憶よりも快楽の記憶をより強く保持するため、快楽が苦痛を上回っている証明ができない。
それでは反出生主義が自殺の推奨になってしまわないか。生まれることと人生を継続することは別に考えるべき。特に自殺は他者に苦痛を与えてしまう。
 ベネターを論破することはさておき、社会は熱狂的に反出生主義を求めている。それは出生を美化する言説に対する強烈なアンチテーゼなのではないか。

 第4章 ゲノム編集で幸せになれるか (28p) 
 親ガチャ的厭世観は自分の出生の決定を遺伝子操作によって変えてやりたくなる。
 ニ〇ニ〇年にノーベル化学賞が送られたエマニュエル・シャルパンティエとジェニファー・ダウドナは生物の遺伝子情報を書き換える「ゲノム編集」の新たな手法を発明した。この「CRISPR-Cas9」という手法により、医療の目的と、身体能力を増強する目的の、研究開発が進んでいる。
 親によって身体をデザインされる子のことを「デザイナー・ベイビー」と呼ぶ。これには倫理的懸念があり世界的に禁じられている。現在ではゲノム編集は発展途上にあり安全性の懸念もある。
 『ポケモン』には遺伝子操作によって生まれたミュウツーというモンスターがいる。ミュウツーはより強い存在を目指す優生思想により生まれ、自身も優生思想に囚われてしまう。
 一九三三年ナチスの「T4作戦」では障害者らを安楽死させた。ニ〇一六年神奈川県相模原市の「相模原障害者施設殺傷事件」では犯人の植松聖が障害者一九人を刺殺した。
 ゲノム編集は、それが子どものためであっても、子どもの同意なしに、子どもの身体に侵襲してしまう。その優生を社会的に決めるのは十分すぎるほど慎重になる必要がある。
 そもそも優生思想は何が問題なのか。それは社会が勝手に作り上げた価値観に基づいて、個人の自己決定権や、生命の尊厳を脅かすからである。では、個人の自由意志による優生思想には問題がないのではないか。これをドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは「リベラルな優生学」と呼ぶ。
 私たちは、自分の人生が出生時にゼロからスタートすることにより、自分の責任の主体として存在ができる。しかし先人の手で出生前に遺伝子操作を受けた場合には、その責任能力が奪われてしまう。
 優生思想に基づく遺伝子操作では、責任を奪われた子どもが自分の人生を自分自身のものとして受け入れられず、親ガチャ的厭世観のもたらす自暴自棄と同じになってしまう。

 第5章 自分の人生を引き受ける――決定論と責任 (30p) 
 親ガチャ的厭世観と人間の責任能力は両立するか。
 すべてのことには原因がある。すなわち、宇宙の誕生からその後の世界に起きることはすべて決定されている。
 外界からの原因の影響から(出生前に)すべてが決定されるなら、この宇宙が誕生したときから人間の行動はすべて決定されていると言える。
 私たちは自由意志によって行為を選択していると信じているが、決定論が正しいのだとすれば自由意志を持つこと自体が不可能である。近代オランダの哲学者スピノザは、もしも石に意思があったら投げられても自分の意思で飛んでいると勘違いするかのように、人間の自由意志など誤解に過ぎないと言った。
 徹底的な決定論を受け入れるとき、責任という概念が完全に成り立たなくなる。しかし人間が作られた単なるモノではなく尊厳をもった存在になれるのは、自由意志で自分の行為を決定できるからである。
 決定論に抵触しない形で人間の責任を考えるには、責任の根拠を自由意志の有無に頼らなければよい。
 戦争や災害などで身近な人々の命が犠牲になったとき、生存者は自責の念にかられる。これを「サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt)」と呼ぶ。戦争や災害は自分で起こすものではないのだから、この責任感は自由意志を根拠としたものではない。ならば、自由意志ではない責任があると言える。
 二十世紀ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、世界(他者)から与えられるものは決定されていて変えることができないが、「私」は他者では無いと言った。言い換えれば、「私」を他の「誰のせいにもでき無い」のだから、「私」は責任を感じる。
 この誰のせいでもない責任を「私」が背負うのは良心の目覚めであるとハイデガーは言う。この考え方なら決定論を必要とせずに責任を説明できる。
 確かに親の影響は極めて大きいが、「私」の人生を自分のものだと思うこともできる。

 第6章 親ガチャを越えて (33p) 
 親ガチャに失敗しながらも出生のせいにせず自分の人生を引き受けることが可能でありそうだが、そうすると現れる残酷な自己責任の孤独に対して、社会はどのように対処すべきか。
 二〇世紀フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、苦境に陥った人は苦境から目を背けるために思考停止すると洞察した。ゆえに、親ガチャ的厭世観の人に責任を押し付けることは非常にハードルが高い。
 だからといって親ガチャ的厭世観による逃避を放っておけば苦境の人が自暴自棄になってしまう。哲学者の鷲田清一は、自律的な思考の条件は、自分のことを他者が聴いてくれるという信頼にあるから、話を聴いてあげれば良いと言う。自立のためには他者への依存が必要である。
 「保育園落ちた日本死ね!!!」と自分の子を保育園に預けられない怒りを国へ向けた投稿者の問題は、家庭と国家の間に位置する中間共同体が日本からなくなってしまったということ。
 社会学者の宮台真司は、われわれが生活のセキュリティを自治せず国家システムへ過剰依存していると指摘している。中間共同体の欠如はコミュニティの一員であるという感覚を空洞化させる。
 新たな中間共同体を創出するために哲学対話の場を設ければよい。
 アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは、人々が自分の社会的な属性(職業、性別、階級など)を分からなくした状態で望ましい社会制度について意見を交わした場合にどんな合意に至るか、「無知のヴェール」と呼ばれる思考実験をした。
 ロールズによれば、そのとき人間は自分がもっとも不利な条件に置かれていることを前提にして望ましい社会を考える。つまり、公正な社会とは弱者への社会保障であり、筆者はだらだらと対話をする生活の余裕を社会が税金で保障してほしい。
 しかし私たちは国家を社会サービスだと考えるようになり、帰属意識(〈われわれ〉の感覚)が希薄になり、自分の税金を他人のために使われたくないと考えてしまう。
 国家への帰属意識を高めればよいのではないか。しかし、外人の排除では問題解決にはならない。また「私」がこの国に生まれたことは偶然であるから帰属の明確な理由にならない。
 結局、筆者には解決策がない。しかし、様々な人々の多様性を認め合う新たな〈われわれ〉のコミュニティが拡張していけばよい。ローティは、他者を否定する残酷さを回避するために思いやりが不可欠だと言った。
 苦境に陥っている人々を助けるために、出生を偶然だと思い、自己責任論を回避する。彼らに責任を要求するなら最大限に思いやって〈われわれ〉の輪として連帯する努力をするべき。

 終章 自己肯定感――私が私であるという感覚 (12p) 
 親ガチャ的厭世観は決定論。自分の力ではどうすることもできないと自暴自棄になり自己肯定感を低下させる。これを解決するには自分の人生を引き受けるしかない。しかし自己責任は回避したい。そこで社会的な連帯を創出するために対話の場を設ける。
 ハイデガーの弟子であるハンナ・アーレントは、「人間が自分らしさを提示するのは、他者の前で何かを語るとき」だと言った。それを発揮できる場を作るために、ルールと互いに許し合うことを尊重すれば、責任が寛容さを必要とすることを学べるし、親ガチャ的厭世観と自暴自棄に抵抗するための自己肯定感を高めることができる。
 現代社会のニヒリズムに抗うために、親ガチャ的厭世観に苦しんでいる人の考えも聴いてあげる対話の場をこの社会に創り出すべき。

 あとがき (2p) 
 謝辞
 

この記事へのコメント

  • ツチノコ

    コメントを失礼します。
    お時間いただけると嬉しいです。


    毒親がその毒親自身が属する社会によって生まれる。
    ならば、その家族から逃げられない子供達は社会と強制的に向き合うことになる。
    逃げられない環境の中で、不幸な子供達はそれを何とかしなければ生きられない。

    親は社会に依存し、その子供は親に依存する。
    社会が病んでいれば、親も病み、その子も病む。
    病んだら、自他を責める。
    と僕は思います。

    一方で
    社会のここが良くないよね
    とみんなが口にしながら、
    社会の一部であるみんな自身には
    罰を与えようとはしない。
    罰は、不幸な人たちが代わりに受けてくれるから。
    大丈夫だって。

    子供の頃にいたある子。
    きっと友達が欲しくて
    「ジュース買ってあげるから仲間に入れて」
    と言ったその子を
    大声で笑った金持ちの子がいた。

    それを聞いて黙っていた僕は何をするべきだったのか。
    正直に言えば、その子とは別に親しくなりたくないと思った。
    それはつまり、病んだ社会を認めることではないのか。
    それでいて、僕は親の毒を恨んだ
    それはとても自分勝手ではないか。
    その子とは個人的には仲良くできた。
    でも友達集団にそれを意識されたくはなかった。
    それは金を欲しかったからではないのか。

    これらの感覚から目を背けて僕は生きてきました。


    今流行りの鬼滅の刃の劇場版を見てきたんです。
    僕は、漫画もアニメも何の話か知らずに見に行きました。
    とても綺麗な映像でした。
    手書きで作られた、
    信じられないくらい繊細な絵が動いていました。
    登場するキャラクターの作り込まれた
    描写に泣いている人もいたようです。
    でも不幸なことに僕は泣けなかった。
    感想は、これで泣いてはいけない。です。
    すごい映像に感動して、すごい泣ける話で泣いて
    それにはまって行くのは、背けたい現実があるから。
    見て見ぬ振りをしている自分の社会があるからです。

    甘い現実逃避を促す物語か
    苦い現実を突きつける物語か
    どちらも必要だ
    と答えようと思っていたのですが、
    それではいけないと気づきました。
    誰がその物語に触れるかによる。と改めます。
    薬を必要とする人、その薬の容量用法があるように
    物語にもそれがある。


    大衆音楽という鎮痛剤を服用して生きてきた自分は
    けけけと言われても仕方ない。
    ですが幸せなことに僕は要ると感じるので、やめないでしょう。

    読んで下さりありがとうございます。
    2025年08月18日
  • 批評界の管理人

     
    ツチノコさんへ
     
    結局、社会というものは家族が大きくなったものです。
    だから子にとって親は社会そのものに見えます。
    子から見て、親が毒されていると感じるならば、社会が毒づいています。
     
    問題はこの毒とは何かです。
    この議論を関西人の政府から封殺されて来ましたが、その答えは外人です。
    毒は外からしかやってきません。
    日本国内の問題は、在日の中朝人を撲滅すれば全て解決しますが、これが難しい。
    なぜなら関西人が中国人だからです。
    そしてその子孫が日本中に散らばりました。
    あなたが家族の問題に悩むことがあるなら、あなたの家族に中朝の影響が入り込んでいるわけです。
     
    関西人が作った日本の学校教育は、中朝人と日本人を混ぜてみんな仲良くさせようという実験でしたが、無理でした。
    問題を肌で体験した学生があの時にどう対処すれば良かったかを悩んでも無駄なことです。
    中朝人を入れたが最後、細菌やウィルスに薬の効果は無く、外人の撲滅以外に治癒はありません。
     
    余談にしますが
    音楽を聞いたりアニメを見たりすることは、自分の弱点を探す行為です。
    私は小さな頃にチャゲ&飛鳥を尊敬して聞いていました。
    そして今はもう克服したのでほとんど聞きません。
    ジブリアニメも面白いと思わなくなりました。
    米津さんは四国の出身だそうで、かなり色濃い中国人です。
    そして鬼滅は朝鮮アニメです。
    あなたの問題を解く鍵はそこにありそうですね。
     
    2025年08月21日

この記事へのトラックバック