町屋良平「1R1分34秒」

三下(意味レベル):現代社会をボクシングで表現しようとして失敗した小説。
強1から6(感情ステップ):不快な社会、人への嫌悪、幸福論、我慢、決別、他人まかせ。
 
2018年雑誌『新潮』。
作者:町屋良平(MACHIYA RYOHEI)、編集:新潮社。
フィクション小説、35字16行140頁(内タイトルなど2)+あとがき1頁。
構成スタイル:日記散文で構成した小噺。
主張:慰安と自尊。
ジャンルと要素:私小説(現代)、妄想(空想+随想)、倫理(心のあり方について)、人情、青春(20代)、アクション(ボクシング)、冒険(登場人物の成長)、ゲーム(試合)、ほか。


批評「スポーツ、碌でもないものが禄になった」
 「スポーツ(sports)」は、有史アテナイの古代オリンピックから数えてみても2000年以上も人類の生活に関わって来た、人間に不可欠の要素である。などと、その手の研究者や競技大会の仕掛け人に言われて鵜呑みにしてしまう現代人の我々だが、実を言えば近代スポーツは発明から100年そこそこと歴史の浅い最近の流行である。大盛況の現代オリンピックやそれを真似する各種の世界大会は古代ギリシアと何の関係も無い。
 100年前は私たちの祖父や曽祖父あたりの時代になる。私たちは偏った教育のせいで当時を全人類が貧困と戦争に制限されて俯いて暮らしていたと覚えさせられるが、それも嘘で、どんな時代でも若者は遊ぶものである。ただし若者が始めることを取りあえず何でも気に入らないと言うのも社会の常であって、若者たちが仕事よりスポーツに明け暮れていたら目の敵にされたのは想像に難くない。それで若者たちは古代アテナイなどを言い訳に持ち出したのだろう。
 これらの説得によって作られた良いイメージは、今も例えばスポーツが肉体表現の芸術であるとか応援する人たちの精神の団結だとか、その全ては後付けの言い訳であり、実は多くの近代スポーツが賭博のためにルールを整備した喧嘩沙汰から始まった。特にボクシングはその代表と言っても間違い無いもので、今でも海外では博打の見世物(ショウビジネス)の一種なのだが、日本では賭博が法律で禁止されているため公には運動(スポーツ)の一種目だと言われている。もちろん海外でも賭博は批判されるのでスポーツが趣旨だと言い訳をしている。
 これを簡単に言ってしまえば、社会的に碌でもない競り合い遊びが面白くて見世物として儲かったので言い訳をしながらやっている、それがスポーツである。最近はビデオゲームの大会を「e-sports」と名付けてスポーツとして認めるか議論になっているが、ショウビジネスになる賭博競技としてこれは正しく、むしろスポーツに健全な運動のイメージを持つ方が嘘に騙されてるわけである。

「スポ魂、現代人はどうして張り合うのか」
 このスポーツというものを文化として書き直す時に「スポ魂」と呼ばれるジャンルが生まれる。昭和期から大流行しているこれはスポーツの描写に例えて人生の節々について説いていく倫理的な作品群のことである。つまりは「人生はスポーツだ」というものになる。
 表現の方法はどの作品も同じく単純にスポーツをして何かを達観する。例えば少年が球技をして友情を育んだり、老人が釣りをしながら人生の答えを考えたり、本作においては青年がボクシングで社会的成功を掴むための心構えを悟る。スポ魂は現代日本に余りにも浸透しているため、この思想を疑われることは今日ほとんど無い。
 どうしてそんなにスポーツなのか。戦前は真剣の戦いに精神を見出していたものが戦後に反戦の風潮を受けてスポーツにすり替わったという意見もあるが、近代スポーツは大戦前に生まれていたものであり、本当は単に暇を持て余した人類が様々なスポーツを開発して面白がっているだけかもしれない。その理由は何にせよ、野球だゴルフだサッカーだ格闘技だ、プロリーグがオリンピックがワールドカップが世界選手権が、テレビをつければスポーツ、新聞も雑誌もスポーツ、学校に通っても趣味に走ってもスポーツ、とにかく現代人の生活はスポーツに侵されている。
 スポーツは始まりから競技の意味であって、競うものなら何でも含まれて、運動に限定されない。この観点から、政治なども誰が勝ったか誰が負けたかとスポーツのように報道されることが多いし、会社の人事などでも例えば「勇退」など戦術的に言われることが多々ある。勉学のテストも今ではスポーツであるし、学術研究では誰が最初に発見したかを競い合い、娯楽まで評価を得点に変えて漫才師の順位を決めたりする。何も分からない高校野球部に「スポーツマンシップに則り」なんてハツラツ宣言をさせればこれが良いものだと世間を騙せるかもしれないが、しかしそれで実生活においてまでヤレ資産がヤレ寿命がヤレ旦那の顔がヤレ着衣のコーディネートがと何でも張り合い出したらウザいことにこの上無い。しかし、今の社会はそうなっている。
 この社会の基底にあるスポ魂とはつまり「他人と張り合うことが人生だ」という啓蒙なのである。

「結局スポ魂のボクシング小説」
 さて、そんな古臭いスポ魂社会に生まれた次世代の若者たちはここに何を見付けるか、それを間違いなく描き切れるかどうかが、わざわざ今日にスポ魂を描く小説の勝負となる。
 本作ではまずスポ魂への疑問が提示される。プロボクサーである主人公は、苦しい練習を耐える自分と同じ生活を送っているであろう対戦相手を想像すると同情してしまって、リング上で敵を叩きのめしたい憎しみが湧いて来ない。それどころか友情を思ってしまう。ところが相手は意外と平気で彼を叩き伏せに来る。この経験から自分の負けを分析し始めた彼は自分がボクシングという張り合い社会に向いていないのではないかと悩む。しかし自分自身を虐める苦悩の憤りが怒りに転化すると、そこに芽生える攻撃性で敵を圧倒する未来がもうすぐやって来ることを示唆して小説を終える。まとめると、張り合いの社会に生まれて、張り合いたくないのだが、やられてムカついたので、やってやる、怒りがこの社会の攻略法だとボクシングに例えて謳う小説である。
 つまり、スポ魂社会に苦戦する今日の若者を描いたところがこの小説の評価されるテーマであり、その評価に反して残念ながら、読者のほとんどはこの結末を面白いと思わないだろう。
 主人公は既存の社会に疑問を持っている。若いなら当然だ。既存社会とは前時代の答えであり、それに疑問を持つ主人公が出す答えは次代の新しい答えでなければならない。すなわち、交友を育むべき若い同志たちが張り合いのスポ魂社会に生まれたせいで潰し合っていることに疑問を感じた、ここまでは良い。これを面白く完結させるためには、スポ魂の次にある新しい答えを見付けなければならないわけだ。この小説の主人公はスポ魂を捨てるしか道は無い。
 ところが本作は主人公が、せっかく感じていた疑問の方を捨ててしまい、結局スポ魂に戻ってしまう。古臭いスポ魂を真似する主人公に若さの意味が無くなるから、小説にあるべき新旧の時代差も無くなる。これでは小説のテーマが無駄になってしまう。それならば漫画『あしたのジョー』や映画『ロッキー』を見る方がスポ魂のオリジナルとして瑞々しく面白いに決っている。二番煎じの(それどころか数十万番煎じの)スポ魂で昭和時代の作品に勝てるはずが無い。
 だから主人公が最後にスポーツで勝ってしまうと、この小説は失敗する。しかしボクシングというものに勝つ以外の魅力があるのだろうか。元来より勝負の賭博である。負けて良かったという賭博があるなら最初からやるべきでは無い。ここまで考えてみるとボクシングで現代を表現すること事態に無理があったのではないか。今日の若者たちはボクシングのような生活を送っているか。違うのではないか。
 さらに悪い点を挙げると、対戦相手が勝利に乗り気なところがある。登場する若者たちがみんな同じ悩みを抱えていれば社会の問題に出来るのだが、主人公だけが悩んでいるのであればそれは個人的なものになってしまい、「この主人公がプロボクサーの勝負世界に向いていないだけ」という形が整ってしまう。こんな弱い者がどうして競技の主人公になるべきで、どうして最後に勝つのだろうか。対戦相手の名前を「青志」と「心」としたのも、最初は若い志に苦戦して最後は心に打ち勝つという洒落になっているが、その表現では社会問題から離れて青春小説になってしまう。それは個人の趣味の話だ。
 スポーツは嫌なら辞めれば良い。人生は選べないし社会を辞めれられないが、ボクシングをやる必要は無いのだ。このスポ魂小説にはスポーツが要らない。ならばこの小説は何になるのか。ここで読者に問いたい。本当に人生はスポーツか。

「文化とスポーツの食い違い」
 近年の流行語に「ノウキン」(脳まで筋肉)がある。これはスポーツをし過ぎて頭が悪くなるという揶揄表現である。日本は文部科学省の中にスポーツ庁がある可笑しな国になってしまったが、世間では今でも文化とスポーツが相容れない。
 最も重要なのはテーマになっている「張り合い」としてのスポーツだ。日本文化において「張り合いがある」と言えば充実するという意味で好意的に解釈される。これは張ることに見合う手応えを得られる感覚を表現しているのだろう。張りは弓の張りか、相撲の突張りか、派生して「頑張る」という言葉が今では流行している。特に人生の苦難を踏ん張り、生活に張り合いを得る、というイメージを持つ人は多くいるだろう。
 ここに海外から輸入されたスポーツと言い訳が「勝負」という意味を定着させてしまった。敵と威勢を張り合うのである。これが日本におけるスポーツの解釈を惑わせて、自分が頑張れば良いというスポーツと、他者に勝つべきというスポーツの、二つの意味を混成する。自己鍛錬は競技では無いから、先に説明した通り前者にはスポーツの意味が無い。しかし日本ではそれこそが張り合いなのだ。そのせいで昭和期のスポーツ練習は、野球なのにウサギ跳びをしたり、マラソンで水を飲まないようにしたり、自虐の苦痛を耐え抜く精神修行をスポーツにしてしまった。スポーツ選手が苦痛に耐えている姿を見て「頑張れ」と声援が湧く。負けても最後まで走り抜けと言ったりする。こういう世情を感じ取った選手の方も勝つ喜びを抑えて自分は修行の「求道者」だと名乗ったりする。しかしそれは競技と関係が無く、勝てば儲かり、どれだけ修行を積んでも勝たない選手に競技人生は無いのだ。
 こうして本作の主人公ような、自分の悩みと張り合う、頭の悪い子が生まれる。小説を一言でバッサリ斬ってしまうと「悩んでボクシングに勝てる」という大きな矛盾がある。苦悩は勝負の邪魔にしかならない。だから小説の主人公は悩みを捨ててしまうわけだが、それは思索を捨てることになり、小説の意味を台無しにする。これぞスポ魂がバカだと言われる理由である。
 本作は結末も悪いが、小説の最も重要な一行である書き出しも相当に悪い。「おなじみの寂寥」(P.3)と書かれている。寂寥は辞書を引くと物足りなさと書いてあるので、手応えのない人生という意味に誤解したのだろうが、寂しさは手応えである。恐らくこの寂しさも人恋しさと混同をして女とのイチャコラを書き加えたのだろうが、これも全く無駄だと言える。侘び寂びについて物申せる熟考が無いのなら寂寥という言葉を使うのは悪手だ。
 これで芥川賞を競り勝ったとのことだが、批評で作家に止めを差すのはいけないとしてもあえて言うべきと思えば、この作者に日本の文化を背負わせるのは無理だ。力不足というよりもお門違いと言った方が正しい。最初から最後まで全て駄目。この小説を褒めた者はそのノウキンを疑うべきである。
 どうしてスポーツがあるのか、何のためにやるのか、もう一度考えて頂きたい。

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