『親ガチャの哲学』の感想です。
書評を自分で読み直してみて思うところ
3つ目に書いた決定論のお話が
ちょいと難しい感じでしたね。
相手が哲学者を名乗っているので
わざとそうしたつもりですが
皆さんには
お手数をお掛けしました m( _ _ ;)m
当サイトでも長らく
一元論から三元論とか
時間は可変かどうとか書いて
未来を変えられるか質問があったりしたのですが
ここら辺が全て決定論と関わってきます。
簡単に言えば
「宇宙の始まりから、終わりまで全てが決まっているか」
というお話ですね。
この答えもシンプルです。
始まりから、存在が単一であれば、終わりまで決まっています。
複数であれば、予定外の変化があります。
ですから
全てが「決まっているか」または「決まっていないか」
と考えるのではなく、
全てが「決まっているし」それでいて「決まっていない」
となります。
見方を変えて言い換えると、
決まっていることもあるが全てが決まっているわけではない
とも言えます。
どういうことか
本書にも石を投げた時の例え話が載っていたので
それで説明しますと
石を投げた後にその石がどのように飛んで転がるか
これは投げた瞬間に決まっています。
ところが途中で横風が吹いたりすれば
石の軌道に予定外の変化が起きます。
たったこれだけのことです。
本書では投げられた石が
飛んでいる間に投げられたことを忘れて
自分の力で飛んでいるように思ってしまう
と書かれていますが、
すなわち
人間も産み落とされて生まれるのに
自分で生きているかのように錯覚してしまう
ということですが、
「生まれる=他者により決定される」
「生きる=自分で決定していく」
と解釈されているわけですね。
そのせいで、
そもそも「生きる」は
「生まれる」がなければ起こらないのだから
全ては始まりから決定されていると言う人が現れたり、
いいや
「生きる」ことで人生を変えることが出来るはずだ
と非決定論を説く人が現れたりして、
今日まで二千年も誰も解けずに来ました。
これが大きな間違いでした。
生む存在(親)から自分が同一の存在として生まれて
他者と関わらずに単一で過ごすならば
死ぬまで疑問は一切生まれず
決まった人生を歩みます。
ところがここに他者が現れた場合に
石に横風が吹くように人生の道も揺れます。
本書では
親ガチャに失敗した(=親に問題があった)場合に
子はその不遇な人生を自分の力で変えることが出来るか
という説明をされているのですが
これがその大きな間違いというもので!
本来
親と子しかいない単一世界であったならば
「親ガチャに失敗した」と「思うことすら無い」
ということなんです。
つまり
親ガチャに失敗したと思っているのは
その子ではなく
他の者たちがその子に
「そう思わせている」
ということなんです。
親に問題があるのではなく
親に問題があるように他者から仕向けられている
ということです。
例えば一家が貧乏であった場合に
カネが無いくらいで親に問題はないのだけれど
社会がその親をビンボーだ能無しだと問題にして
子供は社会に洗脳されて自分の親に問題があると思ってしまう
ということです。
もっと言うと
子供を虐待する親がいますが
あれは親に問題があるのではなくて
その親を生んでしまう社会に問題があるわけです。
社会生活に疲れていなければ
親は子を攻撃しません。
「他者のせい」で「問題は起きる」わけです。
もっと言えば
国家も外人がいるから問題が起こされるわけです。
あらゆる全てにおいて
問題は他者が起こすものです。
すなわち
予定通りにまっすぐと何らの疑問もなく生きる人生に
横風を吹かせるのは他者なんです。
投げられた石が
風に乗って気持ちよく空を飛ぼうが
投げてくれた人に感謝しようが恨もうが
その気持ちが世界を変えるわけではありません。
投げられた先にて
ぶつかった鳥を殺してしまうとも
岩に当たって石が砕けようとも
それで世界が変わるわけではありません。
自分は決定には何らの関係も無いのです。
ただ自分の生まれた通りに
やりたいことをやって生きれたら幸せだと思い、
他者に邪魔をされたら不幸だと思う、
人生とはそれだけのことです。
ですから
例えば最近は政治の話題が多いですが
社会に問題があるとすれば
それは全て外人による害です。
決定論に話を戻せば
宇宙は最初から決まっていますが
予定外の変化があればそれは
宇宙外生命によって脅かされているということです。
宗教で言えば
我々の全ては神(巨大宇宙の生命体)から生まれて
決まっていましたが
地球には宇宙外生命体、すなわちエイリアンも来て
我々に擬態や寄生して問題を起こしている
ということです。
わざわざ宇宙に出なくても
宇宙人(ヒトじゃないけれど)に
私たちは日々会っているんですね。
もしくは
我々の方がそのエイリアンかもしれません。
ゾンビ映画とか『寄生獣』のような漫画は
全部このお話ですね。
結論として
「他」は「外」であり「害」です。
人生は決定されているから不幸なのではなく
決定を揺さぶられるから不幸なのです。
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ツチノコ
青色 解答 子を減す 静脈(右心房へ戻る血液・脳から戻る)・正解
黄色 気 子を育む・子を滅す 肺(吸って吐き出す) ・?
物語がふたつ(比較)から始まるとするなら
間違うことは赤色(動脈)
間に合わせることは青色(静脈)
その流行に乗るのが黄色(空気)
時間・空間・人間に置き換えてみる
時間は光
空間は空気
人間は?
時間の全てに赤色と青色と緑色の関係がある
空間の全てに赤色と青色と黄色の関係がある
人間の全てに赤色と青色と(白or黒)色の関係がある
上に書いたものは最近の僕のイメージのまとめです
下らないと思われても仕方ないですね
こっちがメインの質問です
植物人間について考えてみます
つまり脳死の状態と心臓がない状態について考えます
脳死の状態は心臓が生きていても
もうその人は生きていないと思います
その一方で脳が生きていれば
心臓が人工心臓でも生きていると思います
推測として文化レベルが高い
つまり先進国ほど
脳が健康かどうかでその人が
生きているかどうか
もっと言えば
その人に価値があるかどうかを
判断しているということがわかります
僕は想像でしか話せないですが
脳が働いていなくても
後進国の国々では
その人に価値があると
判断しているのではないでしょうか
いや
判断できるのではないでしょうか
文化レベルが高いということは
脳力が高いということだと思います
そしてまた
文化レベルの高さとお金は
切り離せない関係だと思います
夜の地球を空からみると
都市部に光が集中しています
僕はまるで神経のようだと思います
また
都市部に人は多いので
都市部に金が集中しています
僕はまるで神経のようだと思います
よく
「都会の人は時間に追われている」
といい
逆に
「田舎の人はゆったりした時間の中にいる」
ともいいます。
ここまでお時間割いてくださりありがとうございます。
以上の感覚から
僕はやはり
間を極めること
つまり
能力を高めること
それが
高いレベルの文化であり
解に近づくことであり
金と時間を負うことだと思います
我々は脳を心臓や肝臓のように臓器だと捉えていません
質問は
腹を割って話すと我々は言いますが
なぜこれが
隠し事をせず、お互いの本心や本音を包み隠さず、率直に全て打ち明け合うこと
となるのでしょうか。
もちろん話せる範囲で構いません
よろしくお願いします
批評界の管理人
ツチノコさんへ
>「腹を割って話す」について
語源は分かっていないようです。
ですから正確に読み解くには
その言い回しを使った人に聞くしかありません。
これを受けて最近の人たちは
概ね人には「腹に一物がある」(心の中に企みがある)と想像し
腹を割いてその一物を曝け出すことにより
「本音を話す」という意味に捉えているようです。
しかし私はここに
「割腹」(ハラキリ)があったのではないかと考えて
命をかけて「真剣に話す」の意味を見ています。
さて、ツチノコさんの知りたい本題は
なぜ「腹」なのかではないでしょうか。
かつて人体で最も重要な臓器は心臓でした。
目や他の器官が重要であった時代や地域もあると思います。
しかし昭和期辺りに世界中でそれは脳に置き換わりました。
情報が社会の全てになる時代を予期して
情報を統括する脳が重要だと当時の人たちは感じたのでしょう。
ツチノコさんは「脳死の人は生きていない」とお考えですが
では逆裏を考えて「脳だけ生きていれば人は生きている」と言えるか
哲学界では「培養器の中に生きる脳」という議論が盛んに行われました。
ところがそのレベルを超えて最近の医学では
最も重要な臓器が腸かもしれない
という研究が上げられています。
腸は外界を吸収する臓器です。
心臓がどんなに運動をしようとも
脳がどんなに考えようとも
食わなければ生きて行けませんよね。
ちなみに
割腹はこの腸を自ら斬り殺す行為です。
>赤青黄のイメージについて
信号機の色でしょうか。
まさかあのクソ宗教じゃないでしょうね。
人間以外なら緑色の血もありますし
色盲の人は赤が緑に見える人もいるようですから
色に意味付けをするのはやめた方が良いと思います。
しかしながら三元をイメージ化していく試みは
面白いかもしれません。
>脳力について
私が今回に気になったのはこちらです。
先進国、文化レベルが高い、脳が健康、生きている、価値がある、
という怪しげな単語が並べられていて
本当にそうですかと私は訝ってしまいます。
例えば、昨今の日本とアメリカを比較して
日本の医療現場では
医者が詳しい知識と、正確な判断と、繊細な技術を持っていると
レベルの高い医術を施せると考えますよね、一般的に。
ところがアメリカでは
その知識や判断や技術を持っていない誰でも
医術を施せるようになればレベルが高くなると考えます。
これは病院の雇用問題から来るものであり
スーパードクター1人の神の手に頼ってしまう日本と
短期でどんどん医者が入れ替わるアメリカの
真逆の社会形成の現れです。
つまり先進国アメリカは
脳力が低い人をAIなどによりサポートして
ボトム(底辺層)をアップすれば
社会をそれで良く出来る(文化レベルが上がる)と考えています。
それは脳力が低い人たちを活かそうとしているとも考えられるし
底辺層を要らないと考える日本よりも優しい社会であるとも
言い換えられるかもしれません。
ただし
そうすると人々は当然ながら「考えなく」ても良くなります。
頭を使わなくても金が回る世界をアメリカは目指しているのですね。
そう見ると
脳力が低いことに生きる価値を見出す先進国の姿が現れませんか。
もう一つ、カネと間を結び付けるお話が最後に出て来ましたが
外人は、間を極めようとするどころか
カネのために間を無くそうと考えています。
仕事にかかる時間を減らそう、とか
遠くの物を速く運ぼう、とか
人間関係を簡単に済ませよう、とか
間を価値ではなくコストだと考えているんですね。
ツチノコさんと真逆の考え方が主流になっています。
総じて
「脳の時代」から「腸の時代」に変化している
とお答えします。
ツチノコ
年末は親戚で集まって紅白歌合戦をみていました。
今年はどっちが勝つ?
やっぱり今年も白やろうなぁ。
という会話が定番でした。
田舎の人は愛情深いと思います。
だから騙されやすい。主にテレビとかに。
田舎には都会の文化が1年遅れで到着すると母がいっていました。
都会の若者が飽きて克服した文化をわいわいしながら楽しむのです。
それは楽しかったはず。
そして素晴らしい場所だと信じた都会に行き、信じてきたものは実は造り物で、虚構だったと気づいたら。
もう都会にはいたくない。
でも、田舎にも戻れない。暖かい田舎にいては都会の人たちにまた騙されてしまう。
造り物だったと知って、それでも都会で生きていかなければならない。もっと賢くならなければ。
もっと金を得なければ。騙されないように。
アーティストが死ぬと皆が蟻のようの群がりますよね。
死んでないアーティストはやっぱり偽物なんでしょう。
でも同時に、愛情のある人でもある。
愛情があるから、めんどくさいから、醜いですね。
美しいものだと信じていたものが全て、
脳の魅せるものだと知って
カートさんや三島さんや太宰さんたちは
死んでいったのかな。とか思ったりします。
普遍を探求し、全てを克服したなら絶望が
普遍を放棄し、愛情をとれば虚構の幸福が
管理人さんには死んでほしくないと思っています。
当たり前の感情でしょう。
でも普遍に近づくほど、これを失うと思います。
だから、普遍なんて忘れたい。
でも、羅生門が説くように、それすらままならないのなら、どうすればいいでしょうか。
いや、普遍を忘れることなんてできない。
間違いを克服すれば、忘れられない。ピカソのように。
どうしようもない。
ツチノコ
管理人さんの記事を読み直しながらぼんやりと思いついたので、よければ読んでください
絶対の概念は
絶対という一つの言葉で成立するのか
カジュアルに使う人は絶対を日常会話でも使う気がします
言い換えると100%の確率はありえない。
と言うことで、程度の差はあれ僕もなんとなくそう思います
そこで次のことを考えています
絶対は絶対ない
この文章は矛盾しています
100%は100%ない
と言うことだからです。
そこで、私たちは
絶対ない
という文章の意味を
絶対は絶対ない
の文章をなくして理解できていると言えるか。
つまり矛盾無くしてその意味を捉えられるか。
ということを考えています。
管理人さんの記事においては
「自分」と「他者」
この文章においては
「絶対」と「絶対」
自分は他者ではない
そりゃそうだ。これは矛盾していない。
自分は自分ではない
他者は他者ではない
これらも矛盾はしていない。
その理由について考えてみると、
自分も他者も「絶対(100%)」ではないからです。
普遍とは絶対(100%)のようなものであり、死と似ています。
だから死んだアーティストに群がるわけですね。
死んだアーティストは普遍で絶対なので。
安心して縋れて
初めて自分になれる。
(自分(似非100%)と(亡きアーティスト(100%))
意味になれた気がする。
以前管理人さんが、ただ死ぬだけでは意味がないと
言われていたような気がして。
それに対しては、僕は
死は平等であると思います。
小説家などが死ぬと意味になるわけではなく、
ただ売れるからコンテンツにされてるのだと思います。
縋れないと不安だから、皆縋れるものをいつも探している。
でも、死は真の安心ではないと思います。
いやそうかも。わからないです。
でも、安心がなければ、不安に思うこともない
不安がなければ、安心したいと思うこともないとは思います。
管理人さんが返して下さったコメントを抜粋します。
「ただし そうすると人々は当然ながら「考えなく」ても良くなります。頭を使わなくても金が回る世界をアメリカは目指しているのですね。」
アメリカが目指している社会は、考えない。
つまり他者がいない、不幸にならない社会。
「ガイ」がない世界。
それが「腸の時代」とどう関連しているか考えています。
ただ、ガイがなければ物語もない、と思います。
絶対 意味
他との比較対立を越えていること
あと
過去も未来も相対的なものであることと、
僕たちが未来を感じることは矛盾しないと言うことがわかりました。
僕たちの言う未来とは、脳の発展の先のことだからです。
やっと納得できました。
批評界の管理人
コメントを、ありがとうございます。
私、まだ生きておりますよ。
なので、これからちょっと動きがあると思います。
うちもね、見なきゃ良いのに紅白を見るんです。
老人たちが文句たらたら採点を始めるんです。
誰が歳を取っただの、声が出なくなっただの、
それから今年は若い人たちが多く出たので、
こんな曲の何が良いんだ?と毎回に同じことを言う。
本当に嫌なんですよね、あれと付き合うのが。
私は紅白に出るような歌手をほとんど聞かないので
老人の歌も若者の歌もどちらも、つまんないんですよ。
だけど若者の気持ちを分かってあげるチャンスを逃したら
もう世の中についていけなくなるよと言って返したところ、
うちの老ガイがね、
いいんだ若い奴らの気持ちなんて分からなくても、
こんなくだらないものは、どうでも良いって言うわけです。
それじゃもう死ねばいいじゃない、どうせ10年後は無いんだし
と言ってやりましたところ、
10年後も生きてる!死なない!って激昂されましてね。
まあそこから大喧嘩ですよ、我ながら情けない。
ツチノコさんが年越しに悶々と考えているその時に
遠く離れたこちらでは
もう死ね今すぐ死ねと罵倒の嵐が吹き荒れる大惨事ですw
これが嫌で私はもう旧暦を祝うことにして
自分だけの落ち着いた元日を手に入れるわけです。
アーティストが死んで永遠になるような評価を見ますけれど
それはその有名人に会ったことがない人の感想でありまして、
実際に何人か知り合ってみると
永遠だって?wあんた騙されてるんじゃないの!?w
という感想に必ずなるようです。
死は人を確定するわけではなく
むしろ当然ながら曖昧にするだけです。
生きている人は期待ハズレのことをしでかしてくれます。
夢や冗談に収めておいてほしいことを現実にしてしまいます。
ところがその人が死んで確定するのは、
ファンの期待を何も揺さぶらなくなる、安定です。
みんな好き好き思い思いの期待を膨らませて
過去のビデオテープをリピートし続けて
自分を慰める世界に引きこもります。
結局、誰も自分の妄想の海に溺れているだけなんですよ。
ツチノコさんの最近のテーマで言い換えるなら
自分の脳の中から出られない、というわけです。
脳の外には神がいて
20世紀のアーティストたちは
そいつを、どうやってぶん殴るか
考えていたようですが。
絶対について。
絶対は絶対です。
今の人たちが口にする絶対は誤りで
ただの誇張表現ですね。
例えば「絶対に嘘だね」と言う人がいても
それは絶対ではなく
嘘が「確定」している、と言いたいのだと思います。
98%ほど嘘の可能性が高いとか、それが100%だとか、
そういうことは絶対とは関係がありません。
%じゃないのです。
自分の思考の海に自分が溺れていることが
虚無の妄想か
絶対に「有る」と言えるかどうか。
初恋のあの子は可愛かったなあ、とか
今見るとそうでもなかったりするのですが
せめて死んでいてくれたら
もう二度と情報は更新されることがなく
その妄想が絶対になるような気がする
唯識論の独り遊びですね。
私も生きてほしいと言われて嬉しいですよ。
殺して永遠にしたいとか言われたらガクブルものです。
しかし、私はうちの親に言っちゃったんですけどね。
ガイは必要かなあ。
ナイだけでは脳の発展がないと言われてしまっても
せめて有益なガイを選びたいものですね。