三(意味レベル):死刑の是非についての議論が迷走する。
1から6(感情ステップ):犯罪による不快をぶつけ合い、観念して死刑。
1995年。
監督・脚本:ティム・ロビンス、制作:ワーキング・タイトル・フィルムズ。
主演:スーザン・サランドン、助演:ショーン・ペン、他:9名以上。
ドラマ映画、122分。
構成スタイル:サスペンス。
主張:不明(記録と娯楽の狙いが少しある)。
主なジャンルと要素:私小説、社会、倫理(キリスト教)、人情、暴力(強姦殺人、死刑執行)、二次創作(小説の映画化)。
批評。
「死刑廃止論が映画に負ける」
死刑廃止活動家のシスター・ヘレン(Helen Prejean)による教誨(死刑囚への説教)の経験を描いた同名小説を原作にして、俳優として有名なティム・ロビンス(Tim Robbins)が今回は監督・脚本を担い映画化したものである。ある死刑囚が自分を助けるようヘレンに依頼するがどうにもならないヒューマンドラマである。
デッドマン・ウォーキングとは、死刑囚が処刑場まで歩かされることを言うらしい。アメリカの刑務所では看守たちがこれを号令するという解説をインターネット上の記事でいくつも見つけられるが、実際に行われているのか、全ての刑務所でそうなのか、分からない。「死体が歩く」なんて洒落た言い回しはゾンビ映画の題名のようではないか。アメリカはフィクション性が強くなる国なので本作の内容も半信半疑で見た方が良い。世間ではこの映画を「死刑制度の是非を問う作品」のように批評されているらしいが、その議論も小説や映画を介さずに現実と真実の上でやらなくてはならない。
死刑廃止論のための作品なのにその議論が出来ない。これがこの作品の面白いところになり、執行するのかしないのか、するべきなのか、やめるべきなのか、真実も分からないまま右往左往しているうちに、死刑廃止論どころか死刑があって良かったようにも見えてしまい、観客は戸惑う。観客だってこのテーマを考えようとして見ているのだから、何が悪か、それをどう処するべきか、最初は誰でも疑り深く観察するはずだ。しかし、最後には疲れてしまうのである。
ティム監督は本作がドキュメンタリーとして見られても議論に耐えられるよう丁寧に映像化していて、ショーン・ペンが演じる死刑囚のマシューも、スーザン・サランドンが演じて彼を救おうとオロオロする主役のヘレンも、それ以外の死刑を望む多数の脇役たちも、登場人物の誰もがその役に誠実である。つまり、画面の中の全員が真面目に死刑と向き合っているかのように映ってしまい、全員の意見を聞いて疲れてしまった観客の目には、こうまでして死刑が執行されたのならそれで良いのではないか、正しく死刑が行われているではないか、という風に見えてしまう。それに対してたった二時間の映画を見ただけの私たちは部外者であり、議論をしたところで誰かを救えることもない。
これはなかなか死刑制度の核心をついている。すなわち「どうして死刑を行う必要があるか」という廃止論者の質問があったとしたら、その行き着く答えは疲れて「面倒くさいから」になる。この映画はそれを体験させてくれる。
「死刑が無ければ良かったか」
この作品による死刑廃止の議論が出来ないことを述べた上で、それでも折角なので論じてみよう。この映画の事件において死刑が無ければ良かったか。
マシューと共犯者の二人はイチャつく若いカップルを見つけて襲い、その男の頭を銃で撃ち抜き、女を強姦して刃物で滅多刺しにする犯罪をした。これにより逮捕されるが、マシューは自分がやったわけではないと無罪を主張し続け、物語の最後にやっていたことをヘレンへ告白する。ヘレンはシスターなのでその告解(罪を認めること)を聞いて「罪は赦された」と考えるが、当然ながら刑務所は死刑を執行する。
被害者の遺族たちはシスターのヘレンがマシューを助けようとしていることに憤りを見せる。その主張は、キリスト教が助けるべきは犯罪者ではなく遺族の方ではないか、というものだった。結果的にヘレンは犯罪者と遺族のどちらのメンタルケアもするのでこれは問題にならない。ヘレンはマシューに告解をさせたことでその任務を達成し、キリスト教会のメンツも守り、執行後の埋葬の手配までして、すべて片付くと晴れ晴れした表情を見せる。
遺族側は全員がマシューの死刑を望み、事件を知った市民や市長も死刑を強く望んでいた。これも執行により達成されたので、その描写はなかったが、さぞ満足だろう。対するマシューも、死刑から逃がれようと嘘をついていたものの、観念するや告解をして死刑を受け入れた。
どうだろう。全員が了解する結果であり、完全なるハッピーエンドではないか。
ここにハッピー感が無いのは、無惨に殺された若いカップルがいたことと、マシューが死刑になったことである。すなわち二つの死があったことだ。この死が無ければ全員が幸せでいられた。つまりこの映画を見た後味の悪さは、「死」の悪さであり、「死刑」の悪さではなく、どちらの死であろうと見せられて気分の良いものではない。死刑の「刑」の是非を問いたければ、映画の後味の悪さに目をつむって冷静に考えなければならない。
二つの死を相対してみると、一つ目は犯罪による死であり、二つ目はその報復を達成するための死刑による死である。言い換えれば、一つ目は社会から望まれない死であり、二つ目は社会から望まれる死だと言える。死刑を望まない死刑廃止論者であっても当然ながら犯罪による死を望まないだろうから、ここで出来る議論は、残念ながら起きてしまった誰も望まない一つ目の死に対して、死刑を望んで死を二つに増やすか、死刑を止めて一つに抑えた方が良いかということである。
ここがこの議論の中枢である。死は抑えた方が良いと多くの人が考える。仮にマシューが死刑の数日前に体調を崩して意識を失ったなら、医師らが懸命にその生命を助けようとするだろう。数日後に死刑に処するのにである。被害者遺族も望んでいるものは報復の死刑であるから、死刑囚に自然死されても満足しないだろう。つまり、死刑囚が死ねばそれで良いと考えている人はここにいない。死刑反対派も賛成派も実は死を望んでいないのだ。
ならば、こうしてはどうだろう。死刑よりももっと凄惨な刑罰を創設するのである。執行しても生きてはいるが、死刑の方がマシだと思える物凄い苦しいやつを犯罪者に与えるのである。こうすれば死を減らすことが出来るし、報復も実行することが出来る。全員が喜べるのではないか。
ところがそうはいかない。死刑囚に刑罰よりも死を望む人たちがいるからだ。それは死刑廃止論者でも被害者遺族でもない、無関係の人たちである。映画の中では市長や市民として登場している。彼らは死刑囚が存在する限り彼から襲われるかもしれない不安を拭い切れない。この問題の最大多数派である市民たちから見れば、死刑だのその執行方法だのあらゆる面倒事よりも、凶悪犯罪者と同じコミュニティで暮らすストレスを減らしたい関心しかないのである。ゆえに彼らは、死刑囚が病死したとしても、刑務所に監禁されているだけでも、自分に害が及ばないようなら大した文句を言わない。
こうして今の社会は出来上がり、死刑廃止論者が死を減らすべきだと啓発し、被害者遺族が恨みを返す機会を与えてくれと社会へ訴え、被害者に同情する市民が死刑に賛成する。この三者は、凶悪犯罪が起きてしまう毎に、毎回同じ主張を繰り返して、毎回似たような結果をもたらし、長々と後味の悪さを噛み締め続けている。
ここで死刑を廃止したらどうなるか。誰かが(刑務官が)その犯罪者を自然に死ぬまで監視して世話をしてやらなければならず、被害者遺族は報われない恨みを生涯に渡り持ち続け、市民はその犯罪者が死ぬまで不安に怯える。つまり死刑の是非は、死刑囚を生かすためのこの労力と、死刑とを天秤にかけて、どちらの方が得かを考えることであると言えよう。
この映画では犯罪者マシューを死刑にしてしまった方が皆にとって良いように見える。ここでヘレンがどうしても死刑に反対姿勢を貫きたいのであれば、犯罪者の保護や教育と、被害者遺族の恨みの解消と、市民の不安の解消(犯罪者の監禁)を彼女がしなければならない。彼女一人の手で実現することは到底に不可能であろう。それで結局は彼女も死刑に参加するわけである。
そこで彼女は、告解を望んだ。観客の我らは一見するとマシューが罪の告解を望んだかのように騙されそうになるが、マシューが望んでいたのは自分が他者を殺しても何の咎めも無い世界であって、自分の犯罪を隠し通そうとしていた。これを認めさせようと告解を望んだのはヘレンの方である。犯罪者に告解をさせることで、犯罪者に謝罪をさせ、被害者の報復を正確なものにし、市民たちの社会正義を肯定する。犯罪者の生命を保護することは出来ないが、ヘレンはキリスト教に従って告解をしたマシューが天国で助けられるという嘘を付いて、自分とマシューの両者を騙す。すなわち、死刑を嫌がっていたのはヘレンとマシューの二者であり、告解は彼らに死刑を納得させ、キリスト教の社会奉仕の意義を表現して、死刑を正しく執行するための重要な要素になる。全員の落とし所を確かめようというのである。
映画の結論は、死刑による死の増加を抑えることは出来なかったが、皆が安心した。もしもマシューの死刑を止めていたら被害者遺族と多くの市民を不安にさせた。マシューが新たな犯罪をして死者を増やしてしまう可能性もあった。マシューを死刑にしない方法も無いわけではないが、それには膨大なコストが掛かる。死刑にしてもこんなに大変なのに、彼を生かせばこの面倒が数十年も続くのである。マシューがもう二度と犯罪をしないで大人しく暮らすと誓ったとして、それでは不安を解消することが出来ない。薬物中毒者でも性犯罪者でもそうだが、「やった」者が二度とやらないと申し出たところで「やる」可能性を否定できない。完全に「やれない」ようにすることを突き詰めれば、やはり死刑になる。
さて、マシューの死刑は正当だろうか、それとも回避した方が良かっただろうか。これでもまだ死刑に反対したいのなら、このコストをどうやったら賄えるかどうかを現実に考えなければならない。
「面倒くさいと誠実に言えるかどうか」
最後に、死刑賛成論の弱点についても考えよう。それは命と死の重さである。社会がどんなに望んだとて、死刑は殺人の一種であることに違いはない。死刑に賛成の立場を取る者であっても、殺人犯罪が起きない世の中になって、死刑をやらなくて済むならそちらの方が良いと考えてしまう。この甘い考え方が、廃止論者の的になる。
命に重みがあるのならば、犯罪者の命も重要になる。犯罪により殺害された者の遺族が被害者の命の重みを訴えれば訴える程に、死刑の重みも増してしまい、犯罪者の命の重みも増してしまう。つまり、自分の家族の命は重要だが、犯人の命は軽い、と言えなくなる。そのせいで、殺された家族の命を出来ることなら救って欲しいと遺族が訴えれば、そんなことを言いつつ犯人の命を殺して欲しいと願うのですかと、反論されてしまう。例えば、あの通り魔事件や、あの放火事件やと、大きな殺人犯罪者に死刑の報復をすべきだと我々は考えてしまうけれども、事件が大きければ大きい程に考えてしまい、死刑を執行するだけでその報いを平等に返すことが出来るのか、次第に疑問が生まれる。裁判は通常よりも丁寧に行われ、報道は加熱し、そのせいで膨大なコストを掛けて犯罪者を尊重することになってしまい、「面倒くさいから死刑」と言えなくなってしまう。
死刑が決まったとしても社会反響を慮ってなかなか執行されず、世間も死刑囚の手記を期待して、死刑囚と獄中結婚をして支援する者まで現れたり、少なからずの感情移入や共感が芽生える。被害者は大抵の場合に普通の人だが、凶悪犯罪者は目立つ者であるから、時間をかけると被害者への同情や憐れみが薄れて犯罪者への興味や好奇心が上回り始める。そして死刑が執行された時には何だか虚しさや寂しさを感じてしまう。
死刑賛成論者も犯罪悪に正しく向き合おうとするせいか真面目振ってしまい、面倒くさいから死刑だと言えず、命の重みについて議論に引き込まれてしまう。これが廃止論者の思う壺に入り、賛成論者が根負けするように声高く面倒なことを罵り、その騒動を知った犯罪者は多くの人がかまってくれることに満足する。この死刑囚は「かまって意欲」を無くすといよいよ死刑を受け入れて、その支援者も負け惜しみを言いつつ諦める。全くこの映画のようになる。
私の調べたところ、ほぼ全ての凶悪犯罪者は「かまってちゃん」である。自分を見て欲しい、自分の強大さを知らしめたい、自分の考えを相手に植え付けたい、等々、自己愛の思い上がりが犯罪をより大きく凶悪にしたい原動力になる。元々から面倒くさい者なのである。刑罰はこの面倒くささに掛けられるものであって、命そのものに掛けているわけではない。しかし現在では、死刑廃止論者や犯罪者に共感する者たちが、死刑を命の問題に差し替えて、わざと面倒くさく、議論が長引くように、抵抗するわけである。
重ねて言うが、刑罰は命に課せられるものではなく、面倒くさいものを消すためにある。であるから死刑の是非を議論をすることが、そもそも面倒くさく、無駄である。死刑廃止論者の目論見は、死刑よりも面倒くさい議論を吹きかければ、賛成論者が根負けして、死刑を止めさせることが出来るのではないかと考えているのである。その通り、賛成論者は面倒くさいものを嫌がっているだけだからである。
つまり、こうはっきりと言い切るのも申し訳ないが、この映画も面倒くさく、無駄ということである。しかしながら、いつかあなたが死刑廃止論者の議論に巻き込まれた時には、面倒くさいから死刑が必要だとはっきり丁寧に説明し、もしもそれが通じなければ、この映画を見てからこの記事を読めと言えば良いわけである。
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この記事へのコメント
ツチノコ
批評界が始まってから十年を迎えられたことを嬉しく思います。
批評界に限らず、管理人さんの活動が結実するといいなと思います。
英語で死刑を表す言葉は
death penalty と capital punishment
の少なくとも2つがあり面白いと思います。
capitalの意味は
資本の〜であり、首都の〜であります。
(または大文字の〜)
そこで質問ですが、
面倒くさいから死刑を用いる
ならば
面倒くさいから資本を用いる
も同時に成立しますか?
批評界の管理人
ツチノコさんへ
えっ・・・。
10年・・・( ゚д゚)・・・?
ほんとうに・・・ (;;;°;ω°;): ?
お気持ちは有り難いけれど考えないようにしたいです。
御質問の意図はつまり「面倒くさいからカネで解決する」もあり得るかということですね。
面倒くさいから死刑が通用するならば、死刑の制度も面倒くさいのだから、もう極刑を無期懲役にして、カネを支払えば良いじゃないか、ということにもなるのではないか。
欧州では実際にそうなっているようにも見えますね。
本論で私が述べたのは、死刑と無期懲役と、どちらの方がコスト(カネ)が掛かり、利益はどちらの方があるか、ということです。無期懲役の方が面倒くさいという結論です。面倒くさいからカネで解決すると考えるなら尚更に死刑が肯定されます。
しかし、それならば無期懲役の方に利益を出せたら話が逆転します。『ガレー船徒刑囚の回想』のように、本当は死刑なのだけれど、囚人に労働をさせることで利益に変えようとする発想も実際にありました。ヨーロッパ人はそういうことを考えるようです。
ところが結局は上手く行きません。
死刑になるほどの重大な犯罪に対して、囚人の稼ぎが上回らなければならないわけですが、囚人の稼ぎが上回ってしまうと、今度はその犯罪が肯定されてしまいます。
これの分かりやすい例えは、今が旬のトランプ大統領です。彼はその職務のために重大な犯罪をしているのですが、彼が大統領になって儲かる話になると、アメリカ人は彼の犯罪を裁けなくなります。すると市民は、彼の犯罪を真似てしまいます。彼が落選した時に議会に襲撃して死者が出た事件を恨みに思う反トランプの人は、それならトランプ陣営を襲撃してしまえ、と思い付いてしまうわけです。
当然のことですが罰が利かなくなるのですから犯罪は増えます。
ですから御質問の答えとして、「面倒くさいからカネ」は既に機能していて、死刑が最も効率の良い結論です。というか、カネはコストであり、「面倒くさいから面倒(コスト)を選ぶ」ことに矛盾がありますね。