聖書2 「創世記」神とは何か

二(意味レベル):創世記のみの評価。神と関わる古代イスラエル民族の断片的な民話。
1から8(感情ステップ):人のいざこざ、嫌悪、神の祝福、信仰、町の滅亡、和解、生け贄、移住。
 
原作:ヘブライ律法写本。
制作年:不詳(紀元前数百年ではないか)。
著者:不明(モーセであると信者は願う)。
原本『Biblia Hebraica Stuttgartensia』1977年写本、ドイツ聖書教会。
本書『聖書 新共同訳』1988年翻訳、共同訳聖書実行委員会、日本聖書協会。
伝記小説、24字×23行×2段×93頁。
構成スタイル:ドラマ調散文。
主張:記録(娯楽要素を含む)。
ジャンルと要素:ノンフィクション(では無い可能性もある)、私小説(生活)、ファンタジー(民族起源)、倫理(信仰の生活)、人情(家族)、暴力(戦争や生け贄)、二次創作(の可能性あり)、ほか。共同制作またはアンソロジー。


 前回は聖書の概要について解説した。今回から内容に入る。前回から繋がる話もあるので未読の方はそちらから先にどうぞ。
聖書1 聖書とは何か

 
「様々な誤解と嘘」
 聖書の第一編『創世記』を詳しく読んでいく。日本でも聖書宗教諸派の教会へ行けば日曜礼拝などで説法を聞く事が出来るし、胡散臭い分派が街頭で独自の見解を披露している事もあるが、残念ながらほとんどにおいて『創世記』の誤解が見られる。先に解説した通り、預言者しか知り得ない神について語るものは全て嘘になる。
 1章は神が天地と人を六日間で作った神話が書かれている。この記述を見た宗教家たちによって、世界の全ては神の産物であり、神によって全てを決められているのだという運命論がしばしば二次創作される。また近年ようやく認められた地動説(地球が太陽の周囲を回っていると考える説)なども、全ては神の作った地球や人類を中心に存在しているのだと信じて疑えない教会によって長く拒否された。進化論などは、神が作った完璧なはずの生態系とは別の形で生命が存続出来るはずは無いと考える信者が未だ認めようとはしない。このような「神にまつわる世界の始まり」に関する問題は1章1節にある「初めに、神は天地を創造された。」に起因するものだ。
 さて、神は全てを作ったのだろうか。3節と4節を見てみよう。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」と書かれている。これを読んで神が光にあれと発言したから光はそこに生まれたのだと解釈する向きが現在でも主流だ。これはすなわち神による光への命令である。本論では先に呪術を説明したが、命令とは他者をこちらの意のままに動かそうとする呪力であるのだから、命令を聞く対象が既に存在していないと効果が無い。つまり『創世記』の記述では神が創造する以前に光が存在していた事になってしまう。この考えを加味して訳し直せば「神は言った。『あってくれ光よ。』そこに、光があった。神は光を見て、喜んだ。」となるだろう。記述者と翻訳者による「光まで神に作られた物であってほしい」との願望を除くと「神は光の存在を望んだ(神には光が必要だった)」事だけが浮き彫りになる。「神は神だけで成立が出来ず、光という補完を求めなければならなかった」という事だ。こう考えると「神が全てを作った」とか「全ては神によって決められている」という論は否定される。
 もしくは神がその体内から光という要素を抜き出したとも考えられる。母体から子が体外に生み出されるように「生まれろ」と願われて出て来る。この場合は神が光を求める不完全な存在だったとは言えなくなり、「光あれ」という一言は命令ではなく願望である事になる。しかしそうすると今度は、神には意図して物を作る事が必ずしも出来る訳では無い証明となる。光にあって欲しいと願う訳だから光は神の意志制御を超えた存在になるのだ。つまりどちらの解釈であろうとも光は神の決定の外にあると言える。
 創世の四日目にあたる14節の記述では「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。』そのようになった。」として光の元となる太陽を作った明言がされているが、昼夜と日が四日目に現れるのは矛盾になる。日を数えるという行為は太陽がなければ出来ないのであり、一日目の記述にも「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と書かれているので既に太陽はあった事になり、この四日目の記述はおかしい。記述者が間違えて矛盾を創作したのでなければ、預言者が間違っているか、または神が間違っている事になってしまう。
 さらに問題となるのは神が人を創造する記述が六日目にある。これでは誰がその日まで神の発言を聞いたのだろうか。そして創世に関して神から説明された預言者はいないのだ。すなわち聖書は古代イスラエル人の空想による創作である事は疑いようが無く、他の民族の伝承にも見られるような人類起源を考察する一物でしか無いと言える。イスラエル聖書だけが唯一絶対に正しいと言える論拠は書かれていない。
 以上から、聖書を元に唯一神を世界の始まりだと考える事は間違いである。この神は宇宙の全てでも無い。人類と世界を生み出したとされる単一の存在は証明されていないのだ。仮に聖書の記述を鵜呑みにするとしても、有名な第十一章の小話(通称バベルの塔)では人間が天まで届く塔のある町を建設しようとする事に危機感を覚えた神は人間の言葉を混乱させてその製作を邪魔する場面がある。これは人間が神にとって計算外の行動を起こした故の対処であり、つまり神は創世の六日間の内に完璧な創造を出来なかった(後悔した)という訳だ。だから原始に神が全てを決めている完成された運命など無いし、後から変更される可能性は今もあるのだ。終末や聖戦など人類の終わりまで決まっていると息巻く宗教家もいるがそれらも全て迷信だ。
 他の誤解も解いてみよう。27節には「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれている。似たような記述は聖書の中の至る所に見られ、この記述をもって神の肖像の多くが人の形に描かれる。神は人に近いはずだと思われるからだ。ところが聖書には人間が創造された時から現在と同じ人型であるとは書かれていない。仮に神が微生物であり、太古の人類も微生物であって、そこから今の人型に進化したと考えても聖書と矛盾する事は何も無い。何しろバベルの塔のように神が途中で手を加える可能性はあるのだから生物が進化しても不思議は無いのだ。また逆に考えてみると人は神の模写であるのに神と同じ能力を持っていないのだから、人間とは神の出来損ないである事になるし、神は完成された人(理想像)なのだと言う事が出来る。つまり人は世界や自分たち生命を創造したい生物なのであり神になりたい者である訳なのだ。聖書の記述を見るに神は人を作ったが、神は神を作らないので、むしろ真実は人間こそが神を作ったのだと言い切れるだろう。
 また別の問題。2章3節「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」との記述は私たちの生活を七日区切りで一週間とする根拠となっている。これにより世界は七日間で創作されたと思われているが、よく読めば七日目に神は安息しているので、創作期間は六日間だ。この七日目だけ2章にずれ込んでいるのも文章としては変であり、アダムという最初の人間が誕生する次のお話へと繋ぎに使われた感じが強い。1章と2章では神が人と獣を作る理由と順序が逆になっているなど大きな齟齬も見られるので、これらは別の創作である可能性が極めて高い。つまり語り継がれて来た『創世記』に後世の創作を繋ぎ合わせて変化した形であり、それ故に7の数字を大事にする彼らの文化もまた根拠は不確かだ。広く流説されているラッキー7も本当は6かそれ以外かもしれない。
 流説のイメージで言えば、日本では仏教の一派にある極楽(あの世)という概念と聖書の神の国を混同したり、西洋の宗教画に騙されて天国を想像するがこれも間違いだ。2章10節から14節にははっきり「エデンから一つの川が流れ出ていた。」「川はユーフラテスであった。」と所在地が書かれている。神に与えられた土地エデンは地上にあるのだ。そして8節には「主なる神は、東の方のエデンに園を設け」と書かれているので、エデンは唯一とされる神の国の名称でも無い。『創世記』には「神の国」という記述さえ無いのだ。そもそも彼らの神は唯一であり孤独なので人間を頼らなければ国家を作れない。
 3章はアダムとエバの夫婦がいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べてエデンから追い出される。私たちはユダヤ人問題においてしばしばユダヤ戦争の一連によって彼らが聖地エルサレムから追い出されたと教え込まれるが、これも嘘であり本当は『創世記』の3章からずっと放浪している民族である。続く4章でもアダムの子カインとアベルが殺し合いの兄弟喧嘩をしたせいで神から怒られてその土地を追放されるのだが、実は聖書に書かれる彼らの民族史のほとんどの部分は、自らの裏切りが理由で地域から追い出されるお話の繰り返しなのだ。47章3節では「先祖代々、羊飼いでございます」と発言しているし、彼らの祭壇や住居も天幕を張る移動式の家なので元から国を持たない遊牧民である。
 ところが彼らは裕福な定住に憧れているので周辺国に寄生して、その国に反して追い出されて、また放浪生活を繰り返すのである。善悪の知識の木とは他者の資産であり、その実を勝手に食べたら死んでしまう(死罪)と言われたのに、死ぬことはないと蛇からそそのかされて盗んでしまい、エデンの地域から追い出される。後世のオカルト解釈では、この実が生命であり食によって人類は死を学ぶとか、または神が作った死生観の倫理を学んだとか、強引に宗教と結び付けられるが、真実のところ善悪の知識とは法律の事であり、管理された木から実を盗んだ事によって初めて自らの恥を知った訳なのだ。だからアダムを全人類の始祖とする俗説も間違いであり、彼ら放浪の民の最初の人というだけだ。そんな一族へ預言者を通して神は何度も助言をくれるのだが、その内容はいつか必ず自分たちの土地を手に入れるというもので、故に『創世記』のラストは各地をさまよい続けた一族がエジプトに定住を許されて良かったという終わりになっている。そして残念な事に続く第二編『出エジプト記』ではエジプトを裏切ってまた放浪生活を始めてしまう。
 ここからさらに現在のエルサレムが聖地では無いという事が解る。神なる主が住まわせてくれたエデンという土地は現在のエルサレム地域では無いし、神は彼らの天幕と共に移住が出来るので、聖地という固定の場所を持つ必要が無い。だから『創世記』には聖地という言葉は一切書かれていない。神の国やら聖地やら、さらに言えば神聖という呼び名も、後世の人間が勝手に作り出した二次創作なのだ。イスラエル遊牧民の欲しい物は聖地では無く安住の地でありそこから得られる資産である。しかも自分たちは都市形成を出来ない遊牧民の特徴を持つので必ず他国に寄生して資産を得る。すなわち彼らの安住の地とは安定して収入を得られる寄生先である。現在のイスラエル地域はイエスが殉教した土地として後のキリスト教徒が宗教的大事にしている場所であり、イスラエル人(ユダヤ教徒)はその宗教資産を狙って寄生しているだけなのだ。
 さてユダヤ教徒やユダヤ戦争という言葉を使ってしまったので「ユダヤ人」にも言及しておこう。今日も世界中にユダヤと呼ばれる人がいるがユダヤ民族も実は存在しない。これは周辺国や、特にイスラエル地域に侵攻したローマによってユダ王国人(ユダヤ)と呼ばれた事が始まりだとされ、例えば西洋人が日本人をニホンジンでは無くジャパニーズと呼ぶのと同じように発生して西洋語圏に定着した。軽く蔑称の意味さえ含む。故に当然ながら聖書には一言も登場しないし、彼らは自分たちをイスラエル人だと呼んでいる。ところが現在のイスラエル人と古代イスラエル人は民族的継承をしていない。というのもイスラエルというのは32章29節で預言者の一族であるヤコブが神から付けられた名なので、彼らの一族は「イスラエルという人の子孫」を名乗ったのだが、この家系を証明するための聖書が本論で先述したように正統性を欠いて書き継がれなくなった。そして彼らは元来より寄生や離散から所在の分からない他民族共同体なので、現在では誰がイスラエル子孫なのか、今でも子孫はいるのかどうか、誰も知らない。現在のイスラエル人はその名を取ったイスラエル国の住民でしかないし、ましてや自称ユダヤ人は何者なのだろうか。
 ここまでが聖書の始まりから五章である。神が世を創り、古代イスラエル人の始祖アダムがエデンに住み着き、エバと木の実を食べて追い出され、彼らの息子カインも神に怒られて放浪する。たったこれだけの物語に沢山の誤解と嘘が作られている。聖書の神は全てを作っていない。神は不完全な存在である。運命は決まっていない。世界は神から始まっていない。そもそも聖書の記述さえも正確ではない。進化論は聖書に否定されない。神は人間が作った理想像である。七の数字に拘るのは間違い。アダムとエバは人類の始祖では無い。天国は無い。聖地も無い。ユダヤ人も今では存在しない。
 
「イスラエルの信仰」
 それでは彼らの信仰について見ていこう。六章から十一章の半ばまでアダムの子孫だと書かれているノアという人物が洪水を経験する物語(通称ノアの箱舟)と、天まで届く塔のある町の建設が頓挫する物語(通称バベルの塔)である。
 ここでも先ずは世間の誤解から解きたい。私たちは聖書の誇張表現に踊らされてこの物語を人類が大津波を経験したと解釈してしまうが、洪水というのは河川の氾濫の事である。河川とは無論ユーフラテス川だ。というのもこの地域に津波が到達した史実が無い。長大な川が流れている通り、その源流のエデン地域はかなり標高があり、津波は届かない。しかし紀元から数百年前くらいのユーフラテス川は何度も氾濫した。そして滅びたのがユーフラテスの河口地域にあった大国バビロニアである。
 バビロニアは古代イスラエルを含む周辺の遊牧民や蛮族との問題を平定するために彼らを労働者として定住させた。現代の我々が移民政策と呼ぶやり方になる。この政策をイスラエル人はバビロニアの奴隷にされた(バビロン捕囚)と言って逆恨みしているが、先述した通り古代イスラエル人はここにも寄生していた。そこに洪水が起きたのである。天まで届くバベルの塔とはバビロニアのオベリスクの事だろう。塔にばかりフォーカスされるが彼らが建設したのは「塔のある町」だ。洪水により被害を受けたバビロニアを寄せ集めの外国人労働者たちは再興せずに解散した。これを11章9節では「主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされた」と書いている。ここから聖書がユーフラテス洪水の時代以降に書かれた、大して古い書物では無い、事も解かる。
 この洪水について聖書では人々の心に悪が増大した事を後悔した神が生物の絶滅を計画して起こしたのだと書かれている。なんと神は自分が作った物の出来を気に入らないと、自らを反省するのでは無く、作品のせいにして叩き壊してしまうタイプなのだ。しかも一部を気に入らないだけで根こそぎ破壊し尽くさないと気が済まない神経質だ。『創世記』の神はこの章と19章(通称ソドムの滅亡)でのみ破壊願望を実行に移すが、その理由はどちらも住人が倫理的に悪だったという事である。この記述のせいで聖書の宗教を信じる者は倫理を非常に大事にする。倫理のためなら人を殺しても構わないと思うくらい命よりも大事にする。神が悪人を殺したのだから信者にとっても悪人を殺すのは罪では無い。むしろ殺人は正しい行いとなる。
 では殺すべき悪とは何だろうか。6章13節で神は人間について「彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と言う。つまり神は不法が大嫌いな訳だが、古代イスラエル人は前述したように木から実を盗んだり兄弟を殺したりと、私たちから見れば無法者と言える行いをしたのに殺されるような罰は無かった。その上で神は人類を絶滅させてもノアの一家だけを助けようと言うのだ。この理由を9節「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」と書いている。すなわちここで言う法とは神の律法(宗教)の事であり、この物語は早い話が自分たちの信仰の者だけを生かして他は滅べという宗教倫理なのだ。
 洪水を生き延びたノアに神は9章1節「あなたたちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。」と祝福の契約をする。さらに3節「動いている命あるのものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。」と言い放つ。聖書は人間が書いた物だと前に説明したが、つまりこれが、神を語って全世界を自分のものにしたいと願うイスラエル人の信仰だ。彼らを養ってくれたバビロニア国が洪水で壊滅したのを見てこんな事を言い出したのである。バビロニアはイスラエルの神を信仰しないから滅びた。自分たちは生き延びたから神に祝福されている。だから世界の全てはイスラエル人のためにあり、この決定に従わない者は滅びるべきだという訳だ。
 これまで何回も彼らは神を「主」と記述しているが、ここにイスラエル宗教の基礎的な考え方が見られる。主というのは領主の事である。古代イスラエル人は安住の土地を求めていたが、川沿いの豊かな土地は既に誰かの物なので、彼らはその豊かな国民を妬んでいた。彼らがそこへ勝手に寄生する時に誰の許しを得たのかと問われたら、我々人類の領主は世界を創造した神だと、だから我々は平等に土地を得る権利を持っている、と答えられた訳だ。本質は泥棒と侵略なのだが現代でも同じように平等を訴えて他人の物を欲しがる者はいるだろう。その是非はさて置くとして、古代イスラエル人が神を資産の管理者だと考えているのが解る。
 いよいよ現代にも通じる宗教の姿が見えて来ただろう。古代イスラエル人は他者の所有する土地を求めた。彼らが信仰する神とは周辺国の領主たちよりも古く原始からこの世界を所有している主だという。その主の責任にして他国の資産を奪っていく。周辺国は当然嫌がって距離を置こうとする。すると今度は宗教家たちが神の名を持ち出して我々は迫害されている差別されていると声を上げる。神を信じない不届き者だと相手を罵り始めるのだ。ところが聖書の神は人類に平等では無くノアに肩入れをした。神の信奉者は世界に平等を訴えたい訳では無く、自分も神の祝福を受けたい(資産を手に入れたい)から聖書を信じているのだ。だから平等を訴える宗教家が金儲けをしていたり平和を訴える信者が戦争を始めたりする。
 日本人の我々はこの神をよく知らずに平等や平和の部分だけを輸入しようとする。この行為が資産の奪い合いや果ては戦争をもたらす事を全く理解していない。プラカードを持った外国人のデモ行進を報道すれば彼らの主張からよく解らない神の部分だけをごっそり消去して平和の道徳教育にすり替えてしまうのだ。だから平等が善で差別が悪だとか言い始める。差別「discrimination」とは「crimination」(告発や非難)では無いという意味であり、本来は論理的に「分別のある」という良い意味だ。しかし神を全人類に盲信して欲しい呪術宗教家によって迫害という悪い意味に変えられてしまう。告発や非難を生業にして来た彼らは discrimination により迫害されるからだ。ここから神を抜いて考えたら何が何だか解らない。盲信的で分別も無いのに、自分が何を信じているのか、何に肩入れしているのかも知らず、ただ差別反対と訴え続ければ平等で平和という事になってしまう。そんな人間では平和のために差別を無くそうと訴える運動のせいで平和を乱す事になると考えられもしないだろう。
 
「宗教の誕生」
 さて、神を信じれば全てが上手くいって罪悪感に苛まれる事も無くなるのだろうか。というと当然そう簡単にいかない事を誰でも知っているだろう。神の実態は呪術なのだから騙される他者を見つけられなければ効果を望めないし、騙される方は資産を神へ捧げて祈り続けても何の成果も得られない。こうなると信者は論理の辻褄を合わせようとして自分を責めるようになる。最初は誰でも神を疑うのだが、一部の預言者のように成功して資産を手に入れる者を見ると、次第に自分の信仰のやり方に不安を覚え始めるのだ。ただ目を瞑って土地を欲しい金を欲しいと思うのではいけないのではないか。この不安に答えを教えてさらに資産を巻き上げるのが宗教である。
 『創世記』は12章からノアの子孫であるというアブラハムの家族四代に渡る伝記になり、神と信仰が主体であった描き方から変化が見られる。不思議なのは15章までの主人公アブラムの物語が16章からアブラハムと名前を少し変えて繰り返される。特に後半のアブラハムと息子イサクの生活描写は宗教の実践を読者に教える内容になって前半の神話から一転して宗教臭くなるのだ。これは後の宗教家がアブラムの神話を語り継ぐうちに自分たちの説教を盛り込んでアブラハムの宗教物語に変化してしまった形だ。同じ内容の二つの物語が聖書に同時収録されるという事は、記述された時代に二系統の宗教家がいたという事になる。バビロニアの洪水時代の後に彼らの共同体は大きくなって分派し始めていたのだろう。そして統率するための正しい宗教が必要になった。
 その内容は遊牧民のアブラムが、いつものように土地を与えられると神から言われたのに上手くいかず、甥のロトとも土地を巡って喧嘩別れしてしまう。しかしロトの住んだソドムの町に戦火が及ぶとアブラムはロトを助けて戦うという家族の絆物語だ。この後に神はアブラムを祝福して、動物の捧げ物を要求し、彼に土地を与える契約を結ぶ。後半もほとんど同じ内容だが、ソドムの戦火は神が直接手を下したものだと書き換えられ、神が急に割礼の儀式をしろと言い出し、要求される動物の捧げ物は息子イサクの生け贄にすり替えられる。つまり後半のこの追加部分が宗教になる。
 神は土地をくれる良い存在であったはずだが、信仰が無い者を滅ぼす恐怖の象徴に書き換えられた。滅亡したくなければ自分の体に傷を付けて誓約の証とし、信仰のためなら一人息子の命さえ差し出せと、そういう話に変わってしまうのだ。先に説明したように、信仰だけで土地は手に入らない。それが分かると信者の信仰心は薄れてしまう。そこで宗教家たちは成果の上がらない信者に「あなたに信仰があれば神は必ず祝福する。あなたが祝福されないのは信仰が足りないからだ」と言って逆説へ転換するのだ。その上で「信仰心の足りないあなたは神から断罪される」と脅しを掛けると信仰心を試して資産や家族の命さえ差し出させる。このように宗教組織は民衆を掌握して共同体を運営する。この脅しはあらゆる宗教で今日も一般的なやり方だ。
 ここで自分の体に傷を付けさせるやり方は信仰を覚え込ませるのに効果的である。自傷行為は宗教に限られたものでは無く、性器への傷害も精神疾患の一つとして世界中に見られるものだが、宗教はこれを強要する事で各自の中に悪がある事を自覚させる。傷を見る度に自ら実行した凶暴性を知る事になるからだ。その悪を正当化させるのが信仰だと言われると信者は宗教から抜け出せなくなる。さらに傷は印となって所属意識を高めるし、恥部に抱えた秘密は恥も強く意識させる。この割礼という奇習は、現代でも今から数十年前にアメリカで包茎手術と名を変えて広められて、日本にも輸入されている。今では全く医療効果は無いと証明されて反対運動が起こっているが、宗教の強要のために騙してでも多くの性器に傷を付けたい宗教家がいるのだ。
 故に22章で神が息子イサクを捧げろと言ってアブラハムを試すお話は聖書宗教の根幹になる。神や世界に捧げ物をする風習というのも宗教に限らず世界中に見られるものだが、前半のアブラムの物語では契約の対価として家畜を切り分けて捧げているのに対して、後半のアブラハムは焼き尽くす捧げ物として契約も無いまま、最後はイサクの身代わりとなる動物を火あぶりにする。信仰を絶対のものとするためなら家族さえ火あぶりにしろというこの教えは、割礼の自傷行為を家族の手で施させる重要な動機になる。個人であれば割礼は嫌だと言って逃げればそれまでだが、息子に割礼を施す場合に家長は強い信仰心に駆られるし、息子は物心を覚えた時には既に傷持ちで宗教を意識させられる。宗教のために正当化された傷害事件を起こせば、罪を覚えると同時に、信仰心を強くする。それを子や家族に連鎖させる。
 私たちは宗教戦争を見て彼らには血も涙も無いのかと疑いの目を向けるが、真実は逆で、彼らは罪の意識を掻き立てられる程に信仰心の高揚を覚えてやめられなくなるのだ。「神のために」と叫んで人を殺せるようになるのは、その強い罪悪感を乗り越えてみせる信仰心こそ神への捧げ物だと思うからだ。そして実際の犠牲は身代わりの動物で構わない。火あぶりは戦争になり身代わりは敵対する異教徒の命になる。
 
「世界を創る」
 『創世記』はまとめに入る。古代イスラエル人は他国の法と対抗するための呪術として神の律法を編み出した訳だが、自分たちの共同体が大きくなると人間の律法も必要になって来る。神が土地をくれると言うだけでは共同体を維持出来ないからだ。聖書もここまで来ると神の登場は少なくなって、ほとんどが道徳の物語に帰結する。
 26章からイサクが主人公の物語はアブラハムの物語とも混同されて内容がいくつか重複し、長男の遺産相続の権利や結婚相手についてのお話と、井戸の権利を他国の王と争った事などが書かれる。29章からその息子ヤコブの物語になると神はもう夢の中の存在になって、親戚と上手くいかなかった事や仲違いした兄弟と仲直りするお話が主体になる。このヤコブがイスラエルと名乗るようになるのは睡眠中に襲って来た神と格闘して勝ったからという面白い逸話も収録される。最後は37章からその息子ヨセフが夢占いを当ててエジプトで一大出世する。家族をエジプトに呼んで仲良く暮らし、神を大切にしましょうと言ってハッピーエンドで終わる。
 本論はここまでイスラエルの宗教(ユダヤ教)の悪性ばかり説いて来たが最終的に彼らの望むものも家族の平和だ。住む家があって食べる物があって他者から蔑まれずに暮らしたい。ただそれを達成するためには所属が必要になって争いも起きる。遊牧民はその生活に馴染めない。聖書は奴隷という言葉を何度も使うが、それは雇い主に言わせれば労働者の事であり、聖書の主人公たちのように雇われる方から言えば奴隷になるものだ。現代の私たちも会社員を社畜と呼んだり一昔前はサラリーマンと言って自分を蔑む。それでもせめて家族の仲だけは良くしようと、実際は荒む生活の中で、最後はそれだけが世界の共通語になる。人類はみんな兄弟だとか、地球家族だとか、そういう思想はここから生まれる。
 確かに宗教家は問題を起こす。しかし信者たちまで常日頃から戦争を望んでいる訳では無い。宗教性は危険だが『創世記』を読む限りの神は不信仰を断罪しても人間に戦争を促す様子は無い。どこに終わり無き世界戦争の原理があるというのだろう。
 ここに預言者モーセが生まれる。彼はこれまでのお話から一本の筋を通した成功物語を導き出してしまうのだ。神は祝福をくれる。祝福とは資産を手に入れる事だ。ならば逆に、資産を手にした者は神に祝福されていると言えるのではないか。神のお告げを聞く預言者が成功を約束されるのなら、成功した者こそ預言者として神の声を聞いたと言えるのではないか。つまり神の祝福は人の手で作れるのではないか。世界は自分で創れるのではないか。預言者は一族を定住に導く。それで家族は幸せになる。「あなたたちは地に満ちよ」と世界中へ広がり、不信仰の者たちを断罪し、「動いている命あるのものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」と全ての命を手に入れる。遊牧民から出た労働者がこれを達成する答えとはつまり、略奪ではないか。

祝福とは欲望の解放なのではないか。




次回、聖書3 「モーセ四書」


『創世記』あらすじ。

 1章 天地の創造 
神は六日間で天地と生物を創造した。

 2章 
第七の日に神は安息した。主なる神は土から人間(アダム)と、アダムから女を作り、チグリス・ユーフラテス川源流にあるエデンの園に住まわせた。
 3章 蛇の誘惑 
アダムと女(エバ)は蛇にそそのかされて、食べてはならないと主から言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまい、エデンの園から追放された。
 4章 カインとアベル 
アダムとエバは男子カインとアベルを産んだ。兄カインは農作物を、弟アベルは子羊を神に献げ(ささげ)たが、主は子羊しか見てくれなかった。カインは激しく怒ってアベルを殺してしまったので、主はカインにしるしを付けて、エデンの東にさすらうようにした。

 5章 アダムの系図 
アダムから九代目の子孫にノアが生まれて、ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェト、をもうけた。
 6・7・8章 洪水 
主は地上に人の悪が増したことを後悔して生物を絶滅させようと思い立った。しかし神に従ってきたノアとだけ契約を立てて箱舟を作るように指示した。
洪水が地上に起こったのでノアは主から言われた通りに妻と三人の息子とその嫁と、食料となる獣や家畜のつがいと共に、箱舟へ乗り込んだ。
水がひいた後にノアは祭壇を築いて動物を焼き尽くす献げ物にした。
 9章 祝福と契約 
神はノアと息子たちを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言った。また、命あるものはすべて血を取りのぞいて食糧としてよいし、人間の命である血が流された場合は命を賠償として要求する。二度と洪水を起こさない契約のしるしとして雲の中に虹を置く。と言った。
 ノアの息子たち ~ 10章 ノアの子孫 
全世界の人はノアの一家から出て広がった。ノアはハムを嫌ってその子カナンを兄弟セムの奴隷にするよう言った。
ヤフェトの子孫は海沿いの国に、ハムの子孫はエジプトやシンアルやアッシリア地方に、カナンの子孫はガザ周辺に住んだ。
 11章 バベルの塔 
東の方から移住してきた人々はシンアル平野に天まで届く塔のある町を建てようとした。民族で団結する彼らの企みを妨げるために、主は彼らの言葉を混乱させたので、彼らは全地へと散っていった。

 セムの系図 ~ テラの系図 
セムの八代子孫にテラが生まれ、テラはアブラムとナホルとハランを生んだ。ハランにはロトが生まれた。
 12章 アブラムの召命と移住 
主はアブラムに移住を命じてカナン人の土地を与えると言った。
 エジプト滞在 
アブラムは飢饉を逃れてエジプトに滞在すると妻のサライがファラオ(王)の目に止まった。アブラムは妻を妹だと偽って差し出すと贈り物をもらえたが、主が怒って宮廷に病気をもたらしたので、嘘は暴かれてアブラム一家は追い出された。
 13章 ロトとの別れ 
遊牧生活をしていたアブラムとロトは喧嘩別れをして、ロトはソドムの町に住み、アブラムはカナン地方に住んだ。主はアブラムにそこから見渡す限りの土地を与えると言った。
 14章 王たちの戦い ~ メルキゼデクの祝福 
シンアルの地方で反乱が起きたが統治者ケドルラオメルに鎮圧された。
ソドムに住んでいたロトも巻き込まれたがアブラムが奴隷軍を率いて助けた。
アブラムはケドルラオメルも打ち破った。
 15章 神の約束 
主は言った。アブラムの子孫四代は外国で奴隷になるがその後エジプトからユーフラテス川までの土地を与える。

 16章 ハガルの逃亡と出産 
女奴隷ハガルがアブラムとの子イシュマエルを産んだ。
 17章 契約と割礼 
主はアブラムに言った。これからはアブラハムと名乗り、妻のサライをサラと呼びなさい。カナンの土地を与える契約のしるしに包皮を切り取りなさい(割礼)。いつの時代でも、家族も奴隷も、すべての男子は割礼を受けなければならない。
 18章 イサクの誕生の予告 
主は三人の人の姿で現れて高齢のサラに男の子が生まれると言った。
 ソドムのための執り成し ~ 19章 ロトの娘たち 
彼らはソドムとゴモラの町人の罪は重いと言った。アブラハムが懇願するとソドムの町に正しい者が十人いれば滅ぼさないと語った。
二人の御使いがソドムとゴモラに硫黄の火を降らせて全住民を滅ぼした。ロトだけが逃げ延びた。
ロトの二人の娘は父ロトと寝てモアブ人とアンモン人の祖先を産んだ。
 20章 ゲラル滞在 
アブラハムはゲラルに滞在していたとき、妻のサラを妹だと偽ってゲラルの王に差し出したが、主が王の夢に現れて真相を語ったので、王はアブラハムを恐れて謝罪した。
 21章 イサクの誕生 ~ ハガルとイシュマエル 
サラは男子イサクを産んだ。
女奴隷ハガルと子イシュマエルは追い出された。
 アビメレクとの契約 
アブラハムは羊と牛をペリシテ人の王アビメレクに贈って井戸の権利を買い、寄留した。
 22章 アブラハム、イサクをささげる 
神はアブラハムを試して彼の息子イサクを焼き尽くす献げ物にしろと命じた。アブラハムが実行しようとすると天から神の御使いが言って止めたので、息子の代わりに近くにいた雄羊を焼き尽くした。主の御使いは「あなたは自分の独り子さえ惜しまぬほど神を畏れたので、あなたを豊かに祝福し、子孫を増やして、敵の城門を勝ち取れるようにする」と誓った。
 ナホルの子孫 ~ 24章 イサクとリベカの結婚 
ナホルも多くの子孫を残した。
妻のサラがヘブロンで死んだので洞穴に葬った。
アブラハムは故郷のナホルの町からリベカを迎えてイサクと結婚させた。
 25章 ケトラによるアブラハムの子孫 ~ イシュマエルの子孫 
アブラハムの次の妻ケトラも子孫をたくさん残した。
アブラハムは死んでサラの墓に共に葬られた。
女奴隷ハガルの子イシュマエルは十二人の息子を生んでそれぞれ首長になった。彼らは敵対しつつ生活した。

 エサウとヤコブの誕生 ~ 長子の特権 
イサクとその妻リベカはエサウとヤコブを生んだ。
長男エサウは腹が減ったので次男ヤコブの作ったレンズ豆の煮物と長子の権利を交換してしまった。
 26章 イサクのゲラル滞在 ~ イサクとアビメレクの契約 
イサクは自分の妻を妹だと偽りながらゲラルに住んだ。
イサクはペリシテの王アビメレクと井戸の権利で争って町を追い出された。
イサクはアビメレクと互いに危害を加えない契約を立てた。
 エサウの妻 
長男エサウはカナンのヘト人の娘たちと結婚したがイサクは気に入らなかった。
 27章 リベカの計略 ~ 28章 エサウの別の妻 
イサクは年をとって目が見えなくなっていたので、妻リベカは可愛がっていた次男ヤコブに長男エサウの振りをするように助言した。
ヤコブは長男が得るはずだった祝福をエサウになり代わって父イサクから受けた。
それを知ったエサウは悔しがった。
リベカはエサウの恨みを恐れてヤコブを伯父ラバンの家へ逃がした。
エサウはアブラハムの家系の娘とも結婚した。

 ヤコブの夢 
旅の途中のヤコブの夢の中に主が現れて祝福した。
 29章 ラバンの家に着く ~ 30章 ヤコブの子供 
ヤコブは伯父ラバンの家で働くことになった。
そしてラバンの娘たちと結婚した。
ヤコブは妻のレアとラケル、その側女にたくさんの子供を産ませてヨセフが生まれた。
 ラバンとの駆け引き ~ 31章 ヤコブとラバンの契約 
ヤコブはラバンの家から独立を願ったがラバンは阻止した。
ヤコブは自分の財産を手に入れた。
ヤコブは妻たちと共にラバンの財産や守り神の像を持って逃げた。
ラバンに追い付かれた。
ヤコブとラバンは記念碑を立てて和解の契約をした。
 32章 エサウとの再開の準備 
ヤコブは帰郷にあたり兄エサウへ謝罪の贈り物をする策を立てた。
 ベヌエルでの格闘 
その夜、野営地でヤコブは神に襲われて格闘した。ヤコブが勝ったのでこれからヤコブはイスラエルと呼ばれる、と神は言った。
 33章 エサウとの再会 
ヤコブとエサウは和解した。
 34章 シケムでの出来事 
ヤコブの娘がヒビ人の若者シケムに辱められたので、ヤコブの息子たちは町に入って男たちをことごとく殺し、町中を略奪し、女子供もすべて捕虜にした。
 35章 再びベテルへ 
ヤコブたちは外国の神々のものを捨てて夢の中で祝福された土地に祭壇を築いてベテルと名付けた。神はヤコブをイスラエルと名付けてアブラハムとイサクに与えた土地を彼の子孫に与えると祝福した。
 ラケルの死 ~ 36章 エドムの王国 
ヤコブの妻ラケルが出産で死んだ。
ヤコブの息子は十二人であった。
ヤコブの父イサクはヘブロンで満ち足りて死んだ。
エサウの子孫の系図を説明。
セイルの子孫の系図を説明。
エサウはエドム人の先祖である。

 37章 ヨセフの夢 ~ ヨセフ、エジプトに売られる 
ヤコブの末の子ヨセフは自分に家族全員がひれ伏す夢を見たと言って兄たちから嫌われていた。
兄たちによって穴に投げ捨てられたヨセフはそこを通る商人に見つかってエジプトの役人に売られた。
 38章 ユダとタマル 
ヨセフの兄ユダは長男をなくしたのでその嫁タマルを実家に返した。タマルはヴェールで顔を隠しつつ神殿娼婦の振りをしてユダをたぶらかして二人の子を身ごもった。
 39章 ヨセフとポティファルの妻 
エジプトに奴隷として連れてこられたヨセフは、主人ポティファルの妻に誘惑されたのを拒んだので、腹いせに罪を着せられて投獄された。
 40章 夢を解くヨセフ ~ 41章 ヨセフの支配 
ヨセフは監獄の中で囚人の夢を解き明かしてみせた。
ヨセフはファラオの夢から七年後の飢饉に対策するよう予言してみせた。
飢饉は起こり、ヨセフは神の霊が宿った人として国の責任者に任命された。
 42章 兄たち、エジプトへ下る ~ 45章 ヨセフ、身を明かす 
ヨセフの十人の兄は穀物を買いにエジプトへ行った。ヨセフをヨセフだと気が付かずにひれ伏す兄たちを見てヨセフは末の弟も連れて来いと命令した。
ヨセフは兄弟たちに特別な食事を振る舞った。
ヨセフは末の子ベニヤミンを取り上げようとした。
兄ユダは家族の愛情を訴えてベニヤミンを取らないよう懇願した。
それを聞いたヨセフは正体を明かして兄たちを許した。
 46章 ヤコブのエジプト下り ~ 47章 ヨセフの政策 
ヤコブ一族はヨセフを頼りにエジプトに移住した。
ヨセフは一家がファラオと会見する際に厭われている羊飼いであることを正直に話すよう助言した。
ファラオは一家に生活を与えた。
ヨセフが飢饉に備えさせた食料でエジプトは栄えた。
 ヤコブの遺言 ~ 50章 ヨセフの死 
イスラエルはエジプトに葬られたくないとヨセフに言った。
ヤコブはヨセフの二人の息子の弟の方をより祝福した。
それから自分の十二人の子を祝福した。
ヤコブは先祖の墓に葬ってほしいと告げて息を引き取った。
息子たちは言われた通りにヤコブを葬った。
ヨセフは変わらず兄たちを養った。
ヨセフは神の回顧を訴えて生涯を終えた。


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