西尾維新 「化物語(上) バケモノガタリ」

三上(意味レベル):オリジナリティは無いけれど整った執筆に流行のアニメ化。
1から3(感情ステップ):不快な物事への嫌悪を解いて幸福に。
 
2005-6年『小説現代増刊 メフィスト』にて連載。同年にまとめて本書。
作者:西尾維新。編集:講談社。
フィクション小説:23字×18行×2段×443頁(表題目次挿絵15)+後書2頁。
構成スタイル:ミステリーサスペンス風ドラマの小噺。
主張:娯楽(慰安を含む)。
ジャンルと要素:私小説(現代日本)、妄想(空想の随想)、推理(悩みの解決法)、オカルト(怪異)、コメディ(漫才)、洒落(言葉遊び)、人情(恋愛)、青春(中高生)、ファッション(中高生)、アクション(バトル)、官能、暴力、ライトノベル、ほか。


批評。
 一昔前の作家はフィクション小説を書く時に映画のワンシーンを想像したようだ。今の作家はアニメのワンシーンを想像する。

「ライトノベルの代表作」
 一説によると角川書店が小説を映画化して始めたというメディアミックスと呼ばれる販売手法がある。自然な流れなら、人々の目にとまる小説が生まれた時に、それを劇にしたいとか映像にしたいとか、二次創作の発展は後に生まれてくる。この流れをメディアミックスは逆手に取って、原作を売り出すと同時に二次創作の方も制作してしまう事で、人気が出ているかのような環境まで作り上げる。例えば小説のアニメ化と聞いたらアニメ化されるほど人気のある小説が生まれたのだと客は考える。すると人気作という宣伝が整って多くの人が一目を置いてくれる。売れるものには人気があるというのが正論ならば、人気を作ればより売れる訳になり、その小説もアニメも単体で売り出すより売れる。
 西暦2000年頃から10年ほど出版各社が精力的に打ち出してきたライトノベルという企画は、小説とアニメやビデオゲームなどデジタルコンテンツとのメディアミックス販売を主流とする。そのほとんどの工程を自社で企画し得る先駆の角川書店は良いが、出版専門の会社が真似をするなら他社との共同開発を提案しなければならず、制作は気軽に出来る規模ではない。ライトノベルと銘打ってあるのにメディアミックスされていない作品も多いが、それらはライトノベルという同じ棚にアニメ風の挿絵などを添えてそれっぽく見せかけて、アニメ化の当たり作品と並べて売っている訳である。
 ここにアニメ化がヒットした『化物語』を取り上げる。アニメ化までの流れが遅く、講談社のメディアミックスが不十分であるように見えるが、企画に携わる多業種の目で慎重に選出された本作の安定したシナリオは確かな成果をあげた。多業種が連携する現場で最も重要とされる「安定」とは「わかりやすさ」であり、そういう仕事は誰もが知っている成功例の模倣に近づいてしまうもので、目新しさのない作品に収まるのが常だ。
 小説の形は当時の日本文化ブームに乗せて妖怪モノに仕立てる。その物語は、中学生男子を読者として狙った、初めての恋愛(微エロ)と暴力バトルで展開される。中学生と暴力に特別な接点はないのだが、中学生向けの漫画誌『週間少年ジャンプ』が育ててきた形式としてこれが流行している。小説の中身は中学生が現実に行き当たるだろう人間関係を問題に取り上げて、主人公たちがそれと向き合い成長していく姿を描く。
 この俗に心の問題と言われる抽象的なものを怪異(妖怪)という現象に置き換えて具体的に理解しやすく表現する。例えば一話目でヒロインが「おもし蟹」という怪異のせいで体重を極度に減らされて生活に支障をきたしている。おもし蟹はヒロインの家庭における悩みに取り憑いており、この怪物を退治すると生活の問題も解消されるという具合である。これは昔に大流行したアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の影響からそれ以後の怪奇譚はほとんどがこれを模倣する。
 設定された要素も、学園モノ、ハーレム、異能など、この時代の子供向け作品は異世界の勇者になるか学校でハーレムを作るか、この作品も例に漏れず二大ジャンルの中に収まる。主人公が感想を述べ続ける文章もライトノベル界隈で流行した作風であり独自のものではない。
 中学生向け漫画の流行に乗って、中身は道徳の問題で、形は昔に流行したアニメの模倣。キャラクターの会話を漫才でおかしく表現するのもこの時代のテレビの影響だろう。オリジナル要素は皆無だと言っても間違いはない。これを新しいと思うのはいつの時代も知らない子供たちで、それをライト層と呼ぶ。

「映画化とアニメ化とメディアミックス」
 前時代の作家たちは、深い悩み、強い感情、複雑な関係など、現実には見られない極度な問題を描く事が多かった。同じ方向性の問題でも激化した表現の方がわかりやすいし、難しい問題ほど面白そうに見えたからだ。しかし、例えば東京の街を粉々に出来る爆弾魔を登場させるフィクション小説を用意しても、現実にそれを見た事が無い読者には伝わり難い。そこでこれを成立させるために映画という「非現実なのに現実味のある実写」に媒介を求めた。そんな爆弾なんて存在しないし、全ては嘘なのだけれど、実際に役者が演じている映像を見ると、視聴者の想像にその変な世界が出来上がる。定番の、爆弾の青いコードを切るか赤いコードを切るか間違った方を切ると爆発するらしいシーンも、刑事役がどうして持っているのかニッパーを持つ手が震えて、視聴者はその変な状況に感情移入する。この手の映画を知っている人は今この文章を読んですぐにそのシーンを想像する事が出来るはずだ。
 ところが昨今の人は知識が豊富で現実感も強いから、爆弾魔の映画なんて言われたら想像と同時に、あのバカバカしいやつねと、冷めた感想も思い起こすだろう。映画に騙される人は少なくなった。そこから映像の流行はアニメへと進化して「現実味のない模写」を求めるようになった。映画時代の人はアニメを見て、あんなに目の大きい人間がいるかよと、絵の現実味の薄さを批判するのだけれど、アニメの見方を覚えた人は、そんなところはどうでも良くないかと、注目して見ていない。どうもアニメ時代の人は現実味を「わずらわしい」と思うのだ。青と赤のコードに迷う刑事を、アニメで表現されたら現実を忘れて楽しく見れるのだけれど、実写でやられたら「はいカットー!」という撮影班の声まで聞こえてくるようで気が散ってしまう。どうせ嘘の空想に浸るためのものなのに現実味はむしろ余計ではないか。
 これをメディアミックスで見ると、昔はわかりにくい小説と視聴覚でわかりやすい映画と補完し合っていたものを、今はアニメが主流になり、わかりやすい小説を空想的なアニメ表現で拡張するようになる。小説は率先してアニメのシナリオ原作になろうとする。あり得ない異世界の勇者も学校ハーレムも、現実に成立するように見せかける言い訳など要らない。そんな余計なものを省いて何よりもシンプルに書く事により、わかりやすい共同制作になり、わかりやすいアニメになり、視聴者までわかりやすく届く。これを複雑にしたらライト層へアニメが届く頃には、訳のわからない作品になってしまう。
 小説を深く読み込む人はこの作品を読んでも全く面白さを感じないだろう。面白さどころか、つまらなさもない。どこを取っても目新しさはないのに、特に一話目は物語が綺麗に整っていて、優等生が書いたテスト答案のように白々しさがある。しかし、これをアニメで見れば新しい感じを受けるかもしれない。それはアニメ流行の時代がここに現れているという事だ。この作品はこの時代に選ばれた模範解答とも言える。

「何も解決しない心地良さ」
 アニメの映像についてはここで批評しない。小説に限って意味を見ていく。
 アニメ化を狙って現実味を削ぎ落とすと今度は小説が浮ついてしまう問題が起こる。現実感が薄れると作者の妄想の垂れ流しに見えてしまうのだ。ライトノベル界隈に憧れてファンタジーを自称する訳のわからない作品を書くアマチュアがどれほどいる事か、想像に難くないだろう。彼らは好きなものをシンプルに書いているつもりなのだろうが、一般から見ると現実という共通意識の繋ぎが足りないので何を表現しているのかさっぱり緒をつかめない。「異世界でハーレムなんです!」とその趣味を作者が声高く謳っても「そのハーレムがどうしたの?」と普通の読者なら疑問に思う。
 わかりやすくシンプルにというのは作者が思いを誠実に込めて書けば良いという訳ではない。読者まで出来るだけ伝わるように書くという事だ。作者の楽しみを、読者も楽しめるとは限らない。作者が「楽しい」とか「悲しい」とか感情をシンプルに描いたつもりでも、それはどんなプロが書いたとしても、読者と感想が一致する事はほとんど無い。百人を集めた中の一人にでも感想が伝わるとすれば、人口一億人の国で一万人の共感者が生まれる訳だが、一万人もファンを抱える作家がいるだろうか。
 そこでどうするか。人気作家というものは、実は自分の意見を言わない。今の世間に流行している共通意識を見つけて、あたかも自分の意見のように、代弁するのだ。新しい小説を流行させようと奮起するようなクソ真面目な作家と違って、例えばライトノベルが流行していると聞けばそこに出向いて、その界隈の成功をかすめ取ろうと画策する。アニメ化されたら人気作家になれると邪な動機で書き始めるものだ。オリジナリティの無い作品というものは、まさにその残滓である。
 百に一人も共感してくれない小説を書くよりも、既に共感で集まっている集団から集金するための小説を書いた方が儲かりそうだ。共感の横取りに成功すれば読者が勝手に「私と全く同じ趣向を持った素晴らしい作家がいる」と誤信してくれるし、失敗すれば朴李作家と罵られる。これのわかりやすい失敗例には「壁ドン」という言葉の流行があって、本来の意味は壁の薄いアパートの隣人が煩いのを壁を叩いて注意する行為の事だったのだけれど、少女漫画家たちは男子が恋愛の告白をするために女子を壁際に追い詰める行為だと勘違いして、この流行語をかすめ取ろうとした。作家は流行のネタ探しばかりしていて「壁ドンきたコレ私描けますその漫画」とすぐに手を出すけれども「わかってねーな」と読者に見破られたら追い詰められる。
 さて説明に遠回りをしたが『化物語』である。オリジナルの要素は皆無。そこから上手く共感をつかまなければならない。妖怪や学園ハーレムの成功例を繋ぎ合わせて、それでいて浮つかないように落ちを着ける。ここで作者が共感の「繋ぎ」に用意したものは自己啓発である。
 本作には三編の物語が収められているが、その一話ごとに問題を抱えたヒロインが登場する。主人公の阿良々木君がヒロインの悩みを解決する事で物語は落ち着く訳だが、ここに今の現実を反映させて、何も解決せずに終わる。解決しないで解決する。どういう事か。
 一話目のヒロインはその母親と確執を持っており、母親について考える事を避けていて、その分の捨てた思い出の重さを「おもし蟹」という妖怪によって体重から差し引かれている。ヒロインは軽くなって、なぜか心が重くなっている。ここで主人公はナーバスなヒロインに近づいて怒りの暴力を振るわれた後、彼女を知り合いの霊媒師に紹介する。霊媒師に誘導されたヒロインは自己啓発セミナーのごとく懺悔を始めて、それで悩みが軽くなり、体重も元に戻る。悩んで痩せて、解消して太る、といったイメージだろうか。
 これをよく見ると、ヒロインと母親の問題は何も解決していない事がわかる。そして主人公はほとんど何もしていない。これは二話目以降も同じ形で繰り返される。各話のヒロインから暴力を受けて、霊媒師に相談するだけだ。これがこの小説の現実感であり作者のつかんだ今の共感である。現実的に主人公は無力であり、問題は解決しないのだけれど、悩みを聞いてあげるだけでヒロインは好感をもってくれる。何でもありの空想アニメの原作として浮つかないために用意された現実感は「解決しない事」にある。妖怪退治で家庭不和が円満解決したら嘘くさい。
 ここは熟年のアニメファンであれば気に入らないところだろう。どうせ嘘のシナリオなのだから勧善に解決してほしいと思う。嘘くさくて良いじゃないか。しかしライト層にとってみれば、これが小説というものか、アニメというものかと、この現実感を頼りに手探りの思春を形成してしまう。要は異性の痛みを共感してあげれば良い訳だなと流行のテーマを心地良く受け取る。問題意識を共有する事だけで、問題の解決よりも重要な、この界隈の共感になる。
 確かに当時この感覚は流行した。現実問題の何一つも解決しない今の人はインターネットに共感を求めて群れた。初めは問題を共有してくれる仲間を求めていたものが次第に問題を解決し得ない情けなさを共感する集団になっていった。それも確かな共感にならず、同じアニメを別々に見て感想を一言二言つぶやき捨てるような同調に落ち着いた。それでも「この問題を私は見ているよ」とカミングアウトしたら「同じものを見ているよ」と誰かに応えてもらえる安心があって、それは問題を解決しないままでこそ、安定した慰め合い集団を形成する。現実へのアプローチという余計なものを捨てて、悩みの感情はシンプルに見えてくる。
 映画時代の人は、例えば空想アニメにハーレムを求めるなんて情けないと、アニメオタクを批判するだろう。しかしアニメ時代の人は、現実にハーレムを求めるのはもっと、あり得ない事ではないかと思う。むしろ要らないのは現実の方であり、現実は複雑で解けなくて、わずらわしいだけだ。この感覚をわかる人たちが集まって、その集団の中を、仲間のふりをしたハイエナのような作家が流行を嗅ぎ回っている。ライトな子供たちはその世界を新しい遊びか何かだと思って楽しそうに見ている。


要約。
『第一話 ひたぎクラブ』(P.10-98)
001 僕は高校三年生。クラスメイトの戦場ヶ原ひたぎ(せんじょうがはらひたぎ)は他者を寄せつけない。彼女の体重が異常なほど無いことを僕は知った。
002 クラス委員長の羽川翼(はねかわつばさ)に聞くと戦場ヶ原の性格が暗くなったのは高校生になって体を壊してからだという。
003 僕は戦場ヶ原から文房具で暴力を受ける。しかし僕の体は傷がすぐに治る異能者だった。
004 僕が半不死身なのは春休みに吸血鬼から襲われたからだ。その時に僕を助けてくれた忍野メメ(おしのめめ)のところへ戦場ヶ原を連れて行く。
005 忍野いわく戦場ヶ原には「おもし蟹」が取り憑いているらしい。
006 忍野に誘導されて戦場ヶ原は新興宗教にはまった母親による家庭崩壊と虐待の過去を告白する。おもし蟹に願って忌避していた母親への愛情と苦悩の重さを返してもらう。
007 戦場ヶ原の体重が元に戻って彼女は僕を好きになった。
008 僕の方は重くなった。
 
『第二話 まよいマイマイ』(P.102-242)
001 母の日。なんとなく家に居づらい僕は出かけた公園にて小学生少女の八九寺真宵(はちくじまよい)と遭遇する。
002 ここに居合わせた戦場ヶ原は昔この辺りに住んでいた。
003 迷子だという八九寺を戦場ヶ原に案内させる。
004 しかし三人はどうしても目的の住所に辿り着けない。八九寺「わたしは蝸牛の迷子です」
005 八九寺は離婚した母親を訪ねたいのだという。
006 忍野に頼るとそれは「迷い牛」だといった。家に帰りたくない僕に寄りついた怪異だ。
007 八九寺は生前の悩みに迷い続ける幽霊だった。
008 八九寺は今や更地になってしまった家へ帰っていった。僕と戦場ヶ原は付き合うことになった。
009 八九寺は今日もこの辺をうろうろしている。
 
『第三話 するがモンキー』(P.246-443)
001 神原駿河(かんばるするが)は学校中で噂されるほどのバスケ部のスター選手。
002 神原に僕は三日前からストーキングされている。
003 僕の恋人である戦場ヶ原に神原は中学の頃から憧れていた。
004 僕は夜道にて怪異から暴行を受ける。
005 神原の左手は猿の怪異だった。戦場ヶ原に恋する神原は僕に嫉妬していた。
006 神原を忍野メメのところへ連れて行く。
007 神原は僕を殺したいほどの恨みを隠し持っていた。「猿の手」はその願いを叶える悪魔の手。
008 神原と戦って殺されそうになる。そこに戦場ヶ原が来て解決してくれた。
009 神原の悪魔は去ったが左手は元に戻らなかった。
 
あとがき(2p)

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