アメリア・グレイ 「AM/PM」

amelia.jpg一(意味レベル):無意味なアメリカ生活。 
弱1から5(感情ステップ):生活の苛立ち、好きなもの嫌いなもの、幸福論、感情を抑えて、孤独感。

 
2009年。日本語訳2017年。
作者:AMELIA GRAY(アメリア・グレイ)。
日本語訳:松田青子(まつだ・あおこ)、編集:河出書房新社。
小話集120話、131頁(表題1白1謝辞2)+解説5+著者紹介1。
構成スタイル:散文。
主張:娯楽。
ジャンルと要素:私小説、妄想、道徳、コメディ、洒落、人情、青春、ファッション、ほか。デビュー作。

 
「つまらない」
 最近の本はつまらない。最近の映画はつまらない。最近の世界はつまらない。つまらないつまらないつまらない。そんな言を最近は到るところで聞く。余りにも耳にし過ぎた中年たちは過剰に苛立って辟易さえ覚える。つまらないって簡単に言うな。みんな頑張って作ってんだぞ。そんな声も最近はよく聞こえてくる。
 けれども、つまらないものはつまらない。何を言っても、何も言わないようにしても、つまらない現実が変わるわけではない。一向に世の中は面白くならない。面白いものを作れば良いだけなのにどうして、つまらないものばかり生まれてしまうのだろうか。
 制作の中枢にいる多くの中年たちは面白いものを生み出せない自分をいつも責めている。だから改めて言わないでくれ。分かっているよそんな事。そう思いながら自分を慰める消費に明け暮れる。いやしかし本当に分かっているのか今一度落ち着いて考えてほしい。本や映画や世界がつまらないのはあなたのせいなのか。無理矢理にでも面白いと思えばつまらない世の中は変わるんだと勘違いしていないか。そうして少しでも楽しいと感じるものを集めて少しでも楽しく生きようと思っているのではないか。
 だがそれは無駄な事だ。なぜなら本当はあなたが世界をつまらなくしているのではないからだ。世界があなたをつまらなくしている。つまらないにはつまらない理由があるのだ。

「カウンターカルチャー」
 このような風潮は日本だけのものではない。むしろ日本は海外の潮流をいつも10年ほど遅く輸入して真似をするので、今の日本にあるものは大抵が海外にあったものになる。だから日本に漂うつまらなさも実は、日本が落ち目で最近つまらなくなったのではなくて、少し前にあった海外のつまらないものをわざわざ輸入して「つまらな楽しんでいる」とでも言った方が正しい。では、つまらないものの流行起源はどこにあるのか。
 大々的に広まったのは世界大戦後のアメリカからである。当時のアメリカはノルマンディーや太平洋での勝利に酔いしれたせいで大戦後も飛び火してダラダラと続く各地の紛争に首を突っ込んでいた。ドイツや日本を懲らしめた世界の警察として、アフリカや東南アジアから中東イスラムにまで自分たちの正義を押し売りに行く。悪を倒し、資産を奪い、解放される多くの人が喜び、尊敬を集める。戦争というものはここまではとても楽しいものなのだ。ところがドイツや日本のように潔く負けを認める行儀の良い国ばかりではない。戦後処理が泥沼化して騒乱が続くと、現地では戦争を長引かせるアメリカも悪ではないかと恨まれるようになり、楽しかった戦争はだんだん苦役ばかりになって、軍隊労働に駆り出されるアメリカの若者たちは冷めてくる。そうして戦争へ行きたくないと抗議の声が起こる。
 
 この反戦運動をカウンターカルチャーと言う。私たち日本人は英語をよく知らないので、カルチャーを文化と訳してしまい、これを反発文化の意味だと誤解してしまう。今もこの言葉をネット検索に掛けるとサブカルチャーと同義だとして、主流文化に対抗する新興文化の事だと解説しているものが見つかるが、それは大きな間違いである。カルト(cult)というのは信仰の事だから、カルチャーは文化というより宗教文化と訳すのが正しく、ゆえにカウンターカルチャーは反宗教の意味になる。
 どうして反宗教が反戦運動なのかと言えば、先の世界大戦が宗教戦争だったからだ。ナチス党の率いるドイツは卍の旗を掲げて世界宗教(キリスト教圏)に反旗を翻した。ロシア(ソ連)では共産主義が生まれて世界宗教を蝕んだ。これに対してイギリスやアメリカはキリスト教の正義の審判を押し付けるために連合軍として参戦した。だから最初はドイツと戦い、その後にドイツと敵対していたロシアとも争う事になったわけだ。それなのに何を勘違いしたのか全く関係ないはずの日本がそこに参戦してきた。天皇神というわけの分からない事を言い出した日本をアメリカは爆弾で懲らしめた。ここまではアメリカ人たちも後悔していなかったのだが、その後に自分たちがアジア地域各国の独立の敵になってしまい、キリスト教文化が戦争を鎮火しているのか点火しているのか分からなくなって、苛立つアメリカ内部からカウンターカルチャーが沸き起こる。
 正義のフリをした悪というアメリカの姿は大きな世界テーマになった。当時の若者たちはこう考えた。宗教は意味をもつ。では無意味な事をやって対抗しろ。宗教は厳粛を求める。では騒いでやれ。宗教は規律を強いる。では怠惰になれ。世界宗教に反抗する姿勢から正義と悪の対立を表現してカルチャーにカウンターしようとした。反戦のための戦いである。勿論、何も分からないまま息巻いていた若者たちも大勢いた。この悪い子らは、ロックンロール、麻薬、乱交、暴力、破壊、その行為が蔓延する虚しい生活まで肯定しようとする。日本では不良と呼ばれ、無意味化、虚無、退廃、快楽、これらが戦後に広まったアメリカンカルチャーというものだった。
 
 勘違い日本人は、日本との戦争に勝ったアメリカのものなら何でもカッコいいと思って、アメリカ人の真似をするようになる。ロックンロール、カッコいい。麻薬、カッコいい。乱交、暴力、破壊、カッコいい。僕は虚しい。だからカッコいい。無意味でつまらない事は、反戦でピースで、カッコいい。それが体制への反発だとか反骨精神だとか、わけの分からないものになって、最終的には悪いものがカッコいいと行き着いてしまう。
 アメリカでは反戦と反宗教の悪徳がカウンターカルチャーだった。しかし日本人は戦争と宗教がなくても悪行だけを真似してカウンターカルチャーだと勘違いした。その世代は自分の思想をアメリカのような正義だと信じる。それなのに自分はワル(悪)だったと自慢する。例えば最近亡くなって話題になった内田裕也らがその走りだ。今では新世代の白けた目に晒されながら時代の空気を読めない古い人と化している一派だが、むしろその侮蔑の視線こそが彼らにたまらなく青春を呼び起こす。
 すると今も勘違いが残る遅れた業界では、主に出版や映画やマスコミだが、時代の空気を読めない無意味な作品や反戦運動などが押し売りされる。敵もいないのに悪さをして、その実は無意味で、破壊による無駄な消費の、そんなもので溢れた世界はつまらない。しかし彼らはそれを「つまらな楽しんでいる」わけだ。これがアメリカの最新カウンターですよと紹介されたら、それはつまらないねと喜んで輸入する。新世代にはそれのどこが面白いのか疑問しか浮かばなくても、輸入を仕掛ける老人の方でもつまらないと思っているわけで、すれ違う気持ちとは裏腹に意見は一致する。「つまらない」は戦後世代の合言葉であり、平和を確かめる彼らの精神安定剤であり、憧れだった。
 
 前世紀後半の映画を見ると今なら疑問に思えるはずだ。どうしてどのアクション映画もビルディングが破壊されるのか。どうして自動車で暴走するのか。犯人はどうしていつも爆弾魔なのか。それに色気を誇張した女を連れているのか。カウンターカルチャーだからだ。その事件に主人公が巻き込まれて、最後は大爆発、生き残ったキリスト教家族が愛を確かめ合う。これを日本人が真似すると、爆発を盛り上げだと勘違いして、怪獣をやっつけてもみんな爆発する。制作者たちはそのバカバカしさを、これぞカッコいいと思っている。
 これが次の世代にはよく分からない。素直に見れば、つまらない。ビルや車の実物を壊したらもったいないからCGでよくね?と最近の人は思ってしまうだろう。しかしそうすると、完全にわけの分からない作品が出来上がってしまう。どうして現実の破壊を回避するために未来技術のCGを使って破壊の絵を作るのか。時代錯誤も甚だしい。それでもそういうものにばかり資金を出す老人に従って次世代も制作をするから、出来るものは年寄りから子供までみんなに「つまんないなあ」と陰口される。
 これをもう何十年も「最近」と言い続けて老人たちはまだ若いつもりでいる。彼らの長年の口癖である「最近はつまらない」を聞いた新世代は自分が責められていると勘違いしてしまう。なのに面白いものを作ろうとすると、それは駄目だと上から叱られる。例えば戦争を青春として駆け抜けるドラマなどを真面目に作ろうとしたらその企画は面白いから潰される。しかし戦争に見せ掛けて近未来の美少女がパンツを見せるために銃撃戦をするようなアニメーションなら、バカバカしくてつまらないから企画が通る。作るのは真面目にやるが中身は真面目ではないというカウンター的な言い訳が必要なのだ。
 最近の本を、映画を、世界を、あなたは本心では「つまらない」と感じていないか。しかしそれを公に言ったら角が立つという社会的な空気を読んでいないか。悪口は老人たちの目に触れないようにしてインターネットの未来世界でこっそりと言うべきだと思い込んでいる。しかしその「つまらない」を実は老人たちに言わされているわけだ。戦争の破壊によって世界は虚しくなったのではなく、充実した戦争に対抗するために、世界はわざと虚しさを演じてきた。そうして次世代にも、つまらないバカバカしい虚しい無意味な生活を強要する。新しい人たちは未来技術の仮想世界へと追いやられる自分をつまらないと考え、それを自分オリジナルの意見だと思い込んで、未だ大人になれないワル老人の現前では本心を隠して大人しく良い子を演じてしまう。

「カウンターのカウンター」
 カウンターカルチャーの本家アメリカは今どうなっているか。今回取り上げるこの本も例に漏れず10年前のアメリカ制作を日本に輸入したもので少し古いが、読んで分かる通り、つまらない。それでも今もこういうものを売り込む団体がいるらしく、アメリカの最新風潮のフリをして、オシャレな喫茶店や雑貨屋の本棚に輸入される。アメリカも細々とカウンターカルチャーを続けているのだ。
 しかし今や時代遅れのカウンターカルチャーは次世代に形だけ受け継がれて、無意味を演じるその意味を見失っている。本に収録された大量のショートショートはどれも、何をやっているのか自分でもわけの分からない若者たちが、悩んでいるような面白がっているような虚しい生活を送る。何に反発するわけでもなく、カッコいい事もなく、なぜ自分が苛立つのかも分からず、そんな生活を洒落て気取った自己分析にして護摩化しながらやり過ごそうとする。分からないから苛立っているのに、どうして達観を装っているのか。
 本論の冒頭に書いた「つまらないと言わないでくれ、分かっているよそんな事」という姿勢がまさにこれだ。つまらなくなった世の中を受け継いで、それを肯定的に受け止めて、少しでも面白おかしく生きようとする。生活を楽しめれば人生も楽しくなるはずだと前向きに考える。だから新世代は戦わない。他者との摩擦を過度に嫌うようになって、交流には「いいね!」ボタンだけがあれば良い。反戦運動の結果である平和を維持しながら、そこから生まれるつまらなさを楽しさに塗り替えようとしているのだ。
 するとどうなるだろう。世界は楽しいもので溢れると思いきや、結果は逆になる。新時代は楽しいものだけを求めて、つまらないものを無視するようになるのだ。インターネットにまで押し掛けて若者に政治論争を煽るような老人への対処は「反応せずにスルーしろ」と言うのが最近の合言葉である。喧嘩になるような事を避けて、つまらないものはそっと受け流す。こうなるとぶつかり合うような深い交流は次第に断たれて、グローバル時代の真っ只中にいるはずの私たちなのに、むしろ段々と孤独になっていく。自分が楽しいと思うものばかり集めた個人空間に誰もが引きこもり、世界は小さくなって、どんどん閉塞していく。平和になっていく。
 小説の合間には日記のような詩も書かれているが、一貫してどれもコミュニケーション不全がテーマになっている。それはどうにもならない。事実を受け流すだけだ。読者が共感してみたところで、どうにかなるわけでもない。それならば読者は何のためにこれを読むのだろう。面白いと思える小話を探し出して「いいね!」で共有すれば良いのだろうか。しかし孤独で、虚しくて、上手く行かない生活を面白がればそれで「いいね!」となるだろうか。やはり「つまらない」のではないか。
 この状況を新世代人はよく知っている。つまらない事は十分に分かっているつもりだ。しかし悩んでも解決方法が分からない。だから分からない自分を達観して見る姿勢になる。ところが生活を楽しめなくて苛立ったところで孤独ゆえに責める相手が自分しかいない。こうして独り人形遊びをしているようなこの本は出来上がる。それでも、つまらない人間は無視されてしまう世の中が来ているから、無理矢理にでも面白がらなければならない。悩んでいるような面白がっているような。本書を読んで、中身をさっぱり分からなかった人も、これで分かってくれるだろう。私たちがつまらない世界に生きている事を。
 以上を意識しながら本書を再読すれば、老人との社会関係がほとんど描かれていない理由や、そのせいで分かりにくい若者たちの背景が見えてくるだろうし、作者が何を気取っているのか、どうしてどこか諦めている雰囲気で満たされているのか、分かるようになるだろう。本書はこの虚しさに気づいてそれが愛だというようなまとめになるが、そんな簡単な話ではない。大した事件も起こらない平和な毎日を面白く生きなければならないが、現実がつまらないのだからどうしようもないのだ。ため息をつき飽きた中年たちは「つまらないって簡単に言うな」と憤る。けれども、つまらないものはつまらない。

「6:PM」より引用。(P.9-10)
「え、全員生き残ったってこと? 死亡者ゼロ?」
「全員避難できた、機体で足を火傷したスチュワーデスはいたけれど」
「だったら話は別でしょ」
 テスは立ち上がり、空になったボトルをゴミ箱に投げ捨てた。「墜落したのよ」彼女は言った。「死者が出ていたかも。ごめんね、つまらない話で」
「その言い方やめてよ」ヘイゼルは言った、立ち上がりながら。

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