山崎ナオコーラ 「人のセックスを笑うな」

naokora.jpg
ニと一(意味レベル):無意味な恋愛妄想。
1から4(感情ステップ):恋愛が上手くいかない苛立ち、好き、幸福感、別れて寂しい。

 
2004年雑誌『文藝』(表題作)、2005『西日本新聞』(『虫歯と優しさ』)、2006河出文庫。
作者:山崎ナオコーラ、編集:河出書房。
小説、35字×14行×112頁(表題作)24頁(虫歯と~)+解説9頁。
構成スタイル:小噺。
主張:娯楽。
ジャンルと要素:私小説(西暦2000年頃の日本)、妄想(失恋男子)、社会(学校卒業)、人情(恋愛)、青春(20才前後)、ファッション(人物観察)、官能(性交)、ほか。デビュー作。

 
批評。
「最初の一頁で(というか、ほんとうは、本編が始まる前、タイトルと作者の名前を読んだ時)、ぼくは、ああこれが受賞作だ、今年は楽でいいな、と思った。」(本書解説P.147文藝賞選考委員 高橋源一郎)
 出版に憧れを抱いている読者は、こんなにふざけた論評を見ても、タイトルや名前にセンスが溢れるほど才能豊かな人がデビューしたんだと好意的に解釈する。どうしてそういう思考になるのか、世の中には騙されたくて仕方のない人たちが沢山いて、目を瞑って本を読み、妄想のお花畑を追い求め続ける。楽でいいな。もしあなたに少しでも現実を見る勇気があるのなら、文藝賞というのは中身を読む前に決まっている、と読めるのではないか。
 今の河出書房はどうやら女性にエロを書かせて金儲けを考案する出版社になってしまい「そんなふざけた命名」(P.152高橋)の本でもセックスと書けば欲しがる人間がいるのだと大きく出る。文藝賞は河出書房の宣伝企画であるのだから、巻末の解説も含めて文芸とは偽りの、全ては販売戦略における計画の上にある。看板は真面目にやっているように立てて、中身はふざけたセックスを売る会社という事だ。
 さて、こうして映画化までトントンと決まっていく、山崎ナオコーラの出世作である。内容も全くその通りで、ふざけてセックスをする男女の描写だけがある。美術の専門学校に講師として勤める既婚女性のユリ三十九歳は生徒の磯貝みるめ(一人称主人公オレ)十九才を裸にして弄んで捨てる。捨てられる主人公は未熟な自分がユリの相手として社会的に通用しない情けなさに苛立ちながら、それでもユリを自分のものにしたいと真剣になって、誠意を込めたセックスをする。この男の子の可愛い動揺を餌にして中年女性を釣ろうとする性風俗小説であり、女性作家がセックスを描けば男性にも売れるだろうという、簡単に言えば企画物エロ本である。
 エロ本棚にエロ本として並んでいれば多くの女性は臆してなかなか近づかないが、文芸と偽ってあれば騙された振りをして買える。これを文芸だと言われたら、私にだって書けるし書いてみようかなと下心をくすぐられ、河出書房に本名を晒してエロ小説を投稿する女性が出てくる。その恥ずかしい行為を転がして風俗業は儲けるのだ。そもそもアンチ文学を推し進めてきた出版社のこれがなるべき形態なのだろう。そして今では儲かるものこそ文芸なのだと出版業界は恥ずかしげもなく言ってのける。
 彼らの言う文芸とは人を騙す事だ。久しく意味は忘れ去られて、言葉の力が他者を騙すためにあるものだと勘違いしている。そのネタがセックス表現であり、執筆は名声と金が楽に手に入る夢の世界だという妄想に騙されたい人たちをそれで気持ちよく騙してあげて、この生業を笑ってくれるなと言う。騙される者には騙されていたい夢がある。ふざけた作家がそんな読者を騙して夢の世界を肯定してあげる。ここでおかしいのは文芸という言葉が横領されている事だけだ。
 そうと分かってしまえば何の問題もなく、エロ小説を好く人はここに関わっていけば良いだろうし、嫌いな人は避ければ良い。男性のためのフランス書院のように、女性のための河出書房として、これからもその需要に応えてくれるだろう。
 
「笑う以外に使い道がない」
 これ以上に言える事もないのだけれども一応いつもの通りに小説の出来も見てみよう。
 お話に山も落ちも意味もなく、だらだらとした恋愛描写と感想を続けて、会話中心の余白と改行の多い執筆である。これは小説に学んで小説を書くのではなく、映画などの映像から妄想を掻き立てられて文章を起こしていくこの時代独特の書き方であり、文章だけを読んでも意味が通らない。それでも文芸と間違われるのは、日本には風情小説が流行した過去があるので、何となく情景に感情を重ねて遊べばそれで小説になると勘違いされているからだ。風情小説はそこから意味を求めなければならないが、現在の大衆は意味そのものが分からないので、キャラクターに感情をなすりつける「萌え」という読み方をする。頭を悩ませるような意味を排除して切ないエロ描写に終止した方がこの世代は共感しやすいのだろう。
 ならば映画を見た方が早いのではないかと言えばその通り。小説ならではの良さと言えば情報量が足りないせいで起こる余白の部分に読者の趣味を許す余地がある事だ。映画では画面に映る小物や風景や役者の演技が具体的になるから視聴者の妄想の邪魔となる事がある。例えば下着が映ればそれを見て興奮する人もいるだろうし、これは私の趣味じゃないなと思うと冷めてしまう人もいる。これを映画では映さないわけにはいかないが、小説なら書かなくても良い。「萌え」で感情移入する人には余計なものがない方が楽しめるわけだ。だからこの手の小説は余白が好まれる。
 しかしそれでは作品が浅くなると作者も感じるのか、こういう女性小説家は必ず、数行から数ページのだらだら展開を壊す唐突な一行を無意味にぶっ込んでくる。例えばP.19では「

空は透度が高い。
吸い込まれそうだ。
ブラジャーの中の乳首のように、オレを引っ張る。

」と書かれる。ぶっ込みたいだけだというのは誰が読んでも分かるので一々取り合ってはいけないのだろうが、真剣に読んでも仕方がないという事もまた分かるだろう。空とか透明とか関係なく、ブラジャー乳首と言いたいだけだ。物語の展開もいつもぶっ込み調子で何の必然性もなく動き、そしてセックス以外の何事もないまま終わる。あとは恋愛に振り回される主人公の悩みを作者の妄想で作っていく。
 キャラクター造形は設定と言葉使いこそ男らしいが、思考が全く作者と同じ女性そのもので、男性独特の面白さがない。女性が男性人形を玩具にママゴトをしていると言っても構わないだろう。それより何もしないので、いくら萌えと言えどもこんなに情報量を削ぎ落として良いのかと思うくらい、特徴がない。書けていないと言った方が正しいかもしれない。
 それにしても、エロならエロでもっと書ける人がいるだろうし、ポストモダン文学などと呼ぼうにも完全に無意味を狙った創作でもなく、主人公の変な名前に古典を匂わせたり拙く恥ずかしい部分が見えて、読むとむず痒く笑ってしまう。それもまた昨今の風潮で、押すなと言ったら押せと、笑うなと言われれば笑えという狙いなのだろう。小説も執筆も拙さが売りの、それを喜ぶ選考委員の性癖も、年を取る毎に何の特徴もない老醜になっていく。

 
『人のセックスを笑うな』 <意味レベル、ニ> 
あらすじ。
ユリはオレの通う美術の専門学校で講師をしていた。
将来の進路に不安。
ユリから告白される。
ユリのアトリエで絵のヌードモデルになってセックスした。
ユリはオレを大好きだがダンナも大事と言う。
ユリは料理も掃除も何もできない。
友人の堂本が紹介してくれた女の子「えんちゃん」は家業を継ぐため美術学校をやめるというのでキスをした。
オレはユリを気持ちよくさせてあげられているだろうか。
えんちゃんから告白されるが断る。
ユリの家でダンナの猪熊さんに会って三人で仲良く夕食を取る。
ユリは学校を辞めて猪熊さんとミャンマーへ旅行した。
帰ってきたユリは絵を止めると言う。それからユリと話すことはなかった。
寂しい。
会えなくても終わるものじゃないだろう。

 
『虫歯と優しさ』 <意味レベル、一> 
あらすじ。
 1 伊東美咲似の歯医者さんに歯を抜かれながら、恋人の伊東さん(男)と仲良くハミガキした思い出に涙が出る。私は女装した男。
 2 彼に振られそう。次回の歯医者さんでは麻酔を断った。
 3 痛み止めの薬の半分は優しさで出来ていますか。伊東さんとラーメンを食べに行く約束をする。
 4 路上で弾き語りをしてラーメンを食べに行く。別れ話の中で本当に好きだった気持ちを伝えると伊東さんが泣いた。
 
批評。
 虫歯の痛みと恋愛の痛みが交錯する失恋のお話。一見すると関係ない虫歯と失恋が繋がって大切な感覚を呼び起こすような小説を狙っているようだが、上手く書けていないので、最後まで関係がない。
 ぶっ込み癖からか、はたまた掲載された『西日本新聞』の要望なのか、無意味につけられたホモ設定も投げ放しで消化されない。作者はこれを面白いと思って書いているらしいが、小説の中でホモの面白おかしさをネタにしてはいけないという会話があり、一体この作品は何なのだろうか。表題作と違って性描写もなく、二編に共通するものは失恋のみになる。作者は男性の失恋を妄想するのが趣味なのだろう。ホモなら一回で二人分描けてより美味しいのかもしれない。
 執筆については論外。良いところが一切見当たらない。

 
解説 そう簡単なものじゃない、あるいは、この小説の読み方 高橋源一郎 
この作品を田中康夫さんと一緒に強く推して本も売れた。
この小説は簡単なものじゃない。
太宰治、橋本治、舞城王太郎、紀貫之、男性が女性を装う小説を書く時は言語の変革期だ。
「ナオコ+コーラ」の名前は不吉な「ナオコ」の名前に資本主義社会を生きる雄々しさがついた。女性を装う男性作家は男性中心社会の欺瞞を攻撃的に暴き出した。山崎ナオコーラは男性を装って何も暴き出さない。
ただ「理解」しようとして男性を肯定する真の「女性文学」。

この記事へのコメント