島田荘司 「占星術殺人事件」

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三(意味レベル):散らかして概ね片づけたホームズ探偵もの。
1から4(感情ステップ):推理の楽しさ、好奇心、寂しさ、解けない苛立ち。

 
1987年。
作者:島田荘司、編集:講談社。
小説、43字×18行×453頁(白3頁含む)+目次1頁+プロローグ1頁+解説8頁。
構成スタイル:ドラマ調ミステリー形式。
主張:娯楽。
ジャンルと要素:妄想(空想+随想)、推理(本格)、怪奇(人体作成)、オカルト(占星術)、コメディ(ホームズ&ワトスン)、人情(友情)、青春(駆け出し探偵)、暴力(殺人)、ほか。デビュー作。

 
批評「新本格は古くなった」
 日本の文芸に新本格のミステリーブームが起こって30年以上になるという。振り返って見ると、犯罪の精神異常を追求する怪奇・オカルトもの、そこから信仰や古典意識を掘り起こす不思議もの、それを人情噺で解決する時代もの、現代の歪な家族形成や生活のせいだと問い質す社会もの、等々。そして推理小説の始まりへ回帰しようとするここに至るまで100年に及ぶ本の山がある。
 今では推理小説を評価する文学賞が多くなり、文学界の最大勢力となって、読書と言えば何かしら事件を妄想するものだと思う読者も少なくない。しかしこれまで推理小説はしばしば批判の的にされてきた。普遍の精神を書く小説本来の振りをして、推理小説はどこか異常事件を遊んでいるように見えるからだ。それで人間を描けていないとか、文学というより通俗だと蔑まれたが、こちらの方が求められるのだから仕方がない。出版業界はどちらの顔も立てつつ徐々にこちらへ比重を移した。その結果、学校の教科書に載る事は一切ないのに、本屋へ行けば一等地に推理小説ばかりが山と積まれた。
 このような文学と通俗の仲違いは今日も続いている。言い換えれば、つまらない文学気取りとメディアミックス依存を抜けられない商売との縄張り争いである。この30年間、これでバラバラに崩壊していく出版業界は何の進歩もなかった。大袈裟に言えば昨今の日本の文芸は衰退の一途にある。読者は何を読んだら良いか分からない。日本文学を牽引する作家がどこにいるのか見当たらない。インターネットの台頭により本というアナログ媒体への人気が薄れてきたなどと出版社の言い訳も聞こえるが、本当は中身の方に魅力がなくなったのだ。何しろ最新の流行ですら30年前なのである。
 この老朽化した業界を建て直さなければならない。これは文芸に携わる全員に突きつけられた課題だ。今回はこの問題を精神論に逃げる事なく、未来の作家へ向けて、小説の書き方から考えてみる。
 
「作者の lead、読者の read」
 推理小説を書く時に先ず意識しなければならないものは、何のために書くかだ。この小説で金を稼ぎたいとか亡き母に捧げたいなど個人的な理由はどうでも良い。そうではなくて、読者に謎解きをやらせる事から何を表現したいのか考えなければならない。
 この時、出した問題を解いてもらって楽しくてそれで良いじゃないかと、安易に娯楽として捉えるのも一つの立派な方法だ。そうと決まれば小説は自然と「解く楽しさ」に集中していく。作家は問題の答えから逆算して、どうやって謎が解けたら最も楽しくなるだろうかと、小説の組み立て方が決まる。楽しくなるための舞台を用意して、事件を起こして、台詞を作って、読者を誘導していける。こうなると書く方も楽しい。未だ小説を書いた事のない人がこれを聞いたらその通りだと思うだろう。
 ところが幾つか書いた事のある人にはそう思えない。どう書いたら面白くなるかとか、新しさだとか、読者の評価を気にすると執筆は楽しくなくなってしまう。すると自分が何のために書き始めたのか忘れてしまって、出口のない試行錯誤の迷路から抜け出せなくなる。読者を楽しませる事に何か意味があるのだろうか。名声を得て金を稼ぐためか。それなら人気が出ない作品を書いても無駄ではないか。最近の読者はどんな物を欲しがるのだろう。売れている作家は誰だろう。こういう書き方をすれば良いのかな。そんな風に考え始めたら実はもう末期だ。未だ始まってもいないのに末期な人がこの世界には沢山いる。
 残念な事に読み手にも同様の者が大勢いる。読み手は受けなのだから、自分からこういう物を欲しいと評価を決めてかかってはいけない。自分を楽しませてくれるものに違いないと決めて小説を手にしても、書き手の狙いは違うかもしれないからだ。その失敗を怖れるから、読み手は自分の欲しいものかどうかを他者に聞くようになって、誰かが面白いと言えばそうかと思い、新しいと言えばそういう風に評価するべきかと思って、最終的には自分の趣味に合う意見と同調してしまう。こうなると大衆の意見というものが出来て、書き手も読み手もそれを気にして、似たような作品ばかり生まれてしまう。こんな読み方をするのは意外にも編集者に多い。読む前に書かせる内容まで全てを決めてしまうのだ。
 当然この環境では突出した才能が生まれない。業界は似た者同士の背比べと慰め合いになって行く先が細くなる。これを打開してくれる今まで見た事もないような天才を待望しても、それをなせる変人は大衆に理解されないので芽が出ない。才能者がどこかで小さく作品を発表したところで誰も見つけられない。はっきり言ってしまえば、過去の有名な文豪が昨今に新人として出版をしてもほとんど売れないだろう。出版業界がもう駄目だと言われる雰囲気はこうして生まれる。だが、文豪を一度でも読み解いてしまった深層の読者に、その強烈な個性の美味を忘れる事は出来るだろうか。
 この沈滞した状況を乗り越えるため本当に必要なのは、焦って奇をてらう作品に飛びつくのではなく、作者も読者も双方において初心に立ち返る事である。世間の大衆観をリセットするのだ。楽しむためなら楽しく、作家が確かなビジョンを打ち立てて、読者との共有を目指す。すなわち何のために書くのか、これだけは常に堂々とした考えをもって読者をリードしていかなければならない。読者の方は素直にそれを受け取れば良い。大衆の風潮に流されるような余計な思慮を取り除くのだ。
 1980年代日本の文壇に起こった推理小説の新本格派は見事にそれをやってのけたと言えるだろう。海外に生まれた推理小説は作家と読者による知恵比べの娯楽遊びから始まったものだ。しかしこれを輸入した日本では、小説で人を殺して楽しむという悪趣味を問われて、その殺人事件に社会的意味を求められた。勿論それも有りだ。しかしそれでしか許さないという大衆の風潮により遊びが消されてしまう事に対して新本格派は、推理小説の本格とは娯楽であると、自分の小説をもって言い切った。殺人事件を考えるのが楽しい。それで何が悪い。これを変人の言に思われようとも、こちらが本格だというビジョンを堂々と打ち立てる。これが実って殺人事件と犯人当ての知恵比べゲームは日本で再び大衆の理解と共感を得られるようになった。
 ただし、小説を楽しいと読者に思わせる事が出来なければこの主張は一蹴されてしまう。新本格ブームにも慣れると新しい受けを狙う作家が現れて、推理ゲームを言い訳のように詰め込んだだけの本当は殺人事件を必要としない小説を作ったりするが、それこそ無意味に殺人を描く頭のおかしい作家だと見放される事になるだろう。作品の謎々を作る前に、先ず作者と読者の信頼関係を作る。それが推理ゲームを遊ぶ関係ならば、その本を最も楽しくするためにどうあるべきか、これを見出すのが作者と読者の双方に求められる本格である。
 
「ミスリード」
 今回取り上げる『占星術殺人事件』と作者の島田荘司は新本格ブームを起こす鍵になった。面白いのは上で解説したものに起因する成功と失敗がこの一冊の中に見て取れる事だ。
 先ず1章に犯人の手記。そして2章から9章まで事件の説明。10章から17章までが捜査。最後18章から24章まで解決を書いている。はっきりと起承転結の形だ。作者の見せたいものは殺人事件のトリックであり、それを明かす再終段を楽しくするために小説の要素を配置していく。驚く事に序段から捜査の段まで事件の説明以外はほぼミスリードで出来ている。つまり、起承転の三段は実は必要ないのだけれど、推理小説の体を繕うために水増し効果でつけてあるわけだ。謎解きはシャーロック・ホームズの形を取って、天才探偵役の御手洗潔をワトスン役の主人公が追い掛ける。この二人の掛け合いを小説の軸に物語の独楽を回して読者を振り回すようにお話を組み立てていく。こうして見ると解るように、小説の構成に本作のオリジナル要素は全く無い。こんな風に言い切ると角が立つかもしれないが、結局はホームズの面白さを真似してみた作品である。
 この部分が作者の初心だ。楽しい推理小説を書く。それはホームズであり、事件のトリックを創作する事であり、最後の種明かしであると、作者の考えがはっきりして誰が読んでも分かる。しかし作者はこれに加えて大衆へ向けた言い訳をする必要があると考えたのだろう。特に販売を目的とした長編小説を作らなければならない時代であったから、コナン・ドイルなら50頁ほどで書くものを450頁にも引き伸ばす。これが起承転の三段になり、大衆へセールストークをするかのようにバラバラ死体の合体のお話を創作して怪奇小説を仄めかし、作者の専門であるらしい占星術の知識で覆う。読者は冒頭から読むのでタイトル通りにこれが小説の主題ではないかと騙されてしまうが、この占星術さえミスリードなのである。
 このミスリードが大衆を意識した失敗の部分になる。全ては見掛け倒しなのだから、小説の要素にならず、全体の面白さに関与しない。だから真剣に読むと返ってつまらない。しかしホームズの真似をしただけの作品と題名を打つわけにはいかないのだろうし、小説内も引き伸ばしの言い訳で満たされてしまう。謎解きもトリック1つでは間がもたないので関連事件を2つ増やして、雪の上の足跡だとか密室殺人だとか必要もやる気も見られない執筆になり、小説の前半は酷い出来だ。
 ところが後半へ向かうほど初心に戻るのでテンポが良くなっていく。ワトスン役が物語の背景を一般的な視点から捜査すると、小説は分かりやすくなるし、相対して不思議なトリック事件がますます解らなくなっていく。小説は分かりやすく。しかし事件は解らない。これが推理ゲームの面白さだ。この形が決まると作者も読者も執筆を疑う必要がなくなるので、自然と集中して楽しめるし、小説の多少の齟齬も見逃せる。長い言い訳から入ったお話が嘘のように、天才の御手洗くんがキュートに呼吸を始めて、主人公とコメディの息が合い、事件も綺麗に解決する。
 つまり、オカルトや猟奇殺人などといった分かりやすいパッケージを作らないと売り物にならないのだろうが、そんなオマケで騙しても面白くならないのだ。そういう押し売りの風潮に流されながらも作者はありきたりなホームズ作風に誠心を込めていた。こちらは面白い。使い古されたホームズなんて、推理遊びの殺人事件なんて、というような大衆の意見なんぞに惑わされる事なく自分が面白いと思うものを目指す方が双方のために良いのだと、この作品は思わせてくれる。まさに前半は大衆から軽蔑された殺人推理のかったるさで、後半はそこから脱皮する新時代の本格を見るかのようだ。
 
「騙すのは小説内で」
 小説の出来について。
 とにかく御手洗くんが可愛い。そう思える人には可とされ、思えなければ不可とされるだろう。作者が自信を持つトリックについては推理小説として良く出来ている。それを軸として全体がまとまっているので小説に大きな破綻は見られない。ただし前述した水増し(前半)のせいで生じた細かい齟齬があちらこちらに見つかるので執筆の精度は低いと言わざるを得ない。この不安定な書き出しを見過ごせば後は楽しく読めるはずだ。
 前半は物語も文章も良いところが全く無いので何とも言い難いが、特に悪い部分を挙げるなら、死体を全国各地へ分散しようとして自動車が必要になる展開は酷い。こうするより他に思いつかなかったのだろう苦慮は伝わるのだが余りにも無理やり過ぎて小説に幾つも傷をつけている。説明が重く長くなる上に、冒頭に手記があるのをさらに手記で重ねてしまい小説が進まなくなるし、御手洗くんはこの手記を読んで推理を始めたというのに知らない振りをしてミスリード役を演じるし、酷いと言うしかない。別に死体が腐ってさえいれば近所でも何とかなったのではないか。もしくは、犯人の動機に特段の面白さもないので全く違うお話を用意しても良かった。勿論これは推理小説としての指摘であって現実では毛頭ありえない事は言うまでもない。
 水増しに加えて章の作り方も良くない。勢いで書いたものを繋げたようなバランスの悪さが目立つ。それでも執筆は丁寧な印象を受けるので全ての元凶は推敲不足だろう。自信のトリックをもっと上手く見せる方法があったのではないだろうか。
 やはり総じてミスリードの失敗が痛い。ミスリードが本当に間違った誘導になってしまうと読者は小説の外で迷ってしまう。この作者との旅路がつまらないものになりはしないか、目的地を明かさずに連れて行こうとする推理小説なら尚更、不安になる。気が散ってしまう。それでゴールしても完全に心地の良い達成感へと至らない。執筆に対する疑いが残ってしまう。新本格ブームに乗って推理小説は読者騙しだと間違えている作家も多いので、これに学び、一層の注意が必要だ。ミスリードで読者を騙すなかれ。それでは誰を騙せば良いかと言えば、御手洗きゅんがつぶらな瞳でこちらを見ている。


要約。
 プロローグ (P.7)この事件は昭和十一年(一九三六年)に起こった猟奇的連続殺人で不可能犯罪で犯人も謎のまま四十年以上も迷宮入りしている。
 1 (P.9-)画家の梅沢平吉の手記。魔術に魅せられて夢の中に見た完璧な女をアゾートと呼び、占星術になぞらえて、自分の家に住む親族の娘六人の体を星座の部位毎に切り繋ぎアゾートを作り上げる計画。

 2 (P.43-)一九七九年(四十三年後)、私ミステリーマニアの石岡和己は親友の御手洗潔にその手記と未解決の「梅沢家・占星術殺人」について講義をする。
第一の事件は梅沢平吉が彼のアトリエで殺害された。第二の事件は平吉の家を離れて一人暮らしをしていた長女一枝が強盗に暴行されて殺された。その後で手記に書かれた第三のアゾート一家殺害が起こった。登場人物は、平吉☆と妻・昌子、その娘・一枝☆、知子★、秋子★、雪子★、平吉の前妻・多恵との娘・時子★、平吉の弟・吉男の娘・礼子★、信代★、そして平吉の恋人で画廊カフェを営む富田安江。(☆が第一と第ニ事件で殺害されて、★が第三アゾート事件で殺害された)
第一の事件、大雪の日に平吉はアトリエのベッド付近で頭を強打して死んでいた。窓の外から娘の時子が発見。内側からカンヌキとカバン錠がかけられた密室。家族の皆で体当たりして入る。机の引き出しに手記。外には男靴と女靴の足跡が残されていた。平吉は睡眠薬を飲んでいた。
 3 (P.66-)平吉の死体はひげがハサミで短くつまれていた。平吉の知り合いにマネキン工房の安川民雄。事件の日に平吉はモデルを呼んで絵を描いていたらしい。窓と天窓には鉄格子。殺人方法を御手洗は「ベッドを吊りあげればいい」と推理した。
 4 (P.83-)平吉のひげは弟・吉男と入れ替わるためか。第二の事件、平吉の死の翌月に一枝は花瓶で後頭部を殴られて死んだ。花瓶と鏡台についた血液は拭き取られていた。一枝の体内から新鮮な精液が出た。
 5 (P.110-)第三の事件、不幸が続いた梅沢家は残った六人の娘たちと後妻の昌子がお祓いをしに旅行へ出かけた。そこで六人の娘は消えて全国各地で死体で発見された。別行動をしていた昌子が犯人として捕まり獄死した。昌子は否認を続けたが娘六人を殺害した三酸化砒素が梅沢の家で発見された。六人の死体はそれぞれ生まれ星座と関係する鉱物の採掘場に埋められたり放置されていた。
 6 (P.144-)御手洗は全国に散らばる遺棄地点の中心にアゾートの安置場所があると割り出すがそこには何もなかった。そもそも私たちが占星術殺人事件に首を突っ込んだのは飯田美沙子という女性が来て警察官であった父親の古い手記を持ち込んだからだ。
 7 (P.171-)飯田美沙子の父の手記。私は女に誘惑されて彼女の家で抱いた。その女が一枝という名でその時間に死んだという事を後で知った(第二の事件)。後に脅迫状が届き、彼女の家にある六つの死体を指定された各地へ埋めに行くよう指示されて実行した。
 8 (P.209-)御手洗の推理。やはり第一の事件でベッド吊り上げはありえない。
 9 (P.221-)御手洗の事務所に竹越刑事が訪れて飯田の手記を返せと迫る。御手洗は手記が公開されるまでの一週間に解決してみせると言って京都へ向かう。

 10 (P.242-)平吉の前妻である多恵の生涯は不幸だった。
 11 (P.252-)京都で安川民雄を探す。
 12 (P.263-)彼は既に亡くなっていたのでその娘を探す。
 13 (P.268-)会ったが大した話は得られなかった。
 14 (P.273-)安川と交流があった吉田秀彩という人形師の情報を得る。
 15 (P.286-)吉田は安川が明治村にアゾートがあると言っていた話をする。
 16 (P.302-)明治村のマネキンはアゾートに見えない。吉田秀彩があやしいか。
 17 (P.324-)破れた千円札をセロテープで張り合わせたものを見て御手洗がひらめく。
 
<私は読者に挑戦する>(P.347)完璧なフェアプレーだ。
 18 (P.348-)御手洗がすぐに犯人の須藤妙子を探し出した。
 19 (P.360-)東京への帰途。得意な御手洗と解らなくて悶々する私。
<第二の挑戦状>(P.371)須藤妙子とは誰か? 犯行の方法は?
 20 (P.372-)第一の事件は彼女がモデルとして平吉に近づいて殺した。カバン錠は後でかけてあったと嘘の証言をした。カンヌキは糸一本でかけられる。男靴の足跡は彼女がつけた。靴は後で戻した。第二の事件は先に一枝を殺しておいて飯田の父の精液を彼女に移した。その空き家で行われた第三の事件。ヒントになる偽札トリックの説明。
 21 (P.395-)アゾート殺人の種明かし。
 22 (P.416-)犯人は。
 23 (P.428-)御手洗と石岡の和やかな後日談。
 24 (P.436-)犯人の遺書。犯行動機の自白。
 解説 鎌田昌一 御手洗潔の誕生について。

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