前川喜平 「面従腹背」

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二(意味レベル):自尊と愚痴を当たり散らす。
弱1から4(感情ステップ):自分と違う意見への不快、嫌悪、幸福論、腹背。

 
2018年。
著者:前川喜平(まえかわきへい)。編集:毎日新聞出版。
批評、38字×14行×194頁+端書13頁+目次他6頁+後書4頁+つぶやき12頁。
構成スタイル:批評。
主張:自尊。
ジャンルと要素:ノンフィクション(告白)、随想(教育思想)、道徳(義務教育)、青春(文部科学省への勤務)、ほか。

 
批評「スパイか」
 2016年から半年ほど文部科学省の事務次官に就任していた著者によるエッセイ本である。
 文部科学省というのは教育と学習に税金を投入して振興しつつ、国民のスポーツ、文化、科学技術、宗教まであらゆる交流のあり方を設計する政府機関である。事務次官というのはその業務の全てを管理する責任者になる。この役職は日本国において学力の最上級にある東京大学から官僚になる一部のエリートの内でも通常は数年に一人しかなれない全学術機関のトップの上のトップとして、学校長や教育委員や大学教授など知識層の上澄みにいる全ての教師を指導する最高位の国家公務員である。言うなれば「その時の日本で最も優れた人格者」という事になる。
 しかし現在の日本国は絶対的な信用をしない民主主義の思想をもっているので、この事務次官が個人の思うままに国民を支配しないよう、憲法はその上に事務次官の任命権をもつ政治家と大臣を置いて、国民から直接に信任されるその者たちが無学でも構わないと規定している。つまり、事務次官と官僚たちがどれだけ知恵を絞って教育法を発案しても、何の考えもなしに大臣がその紙を指で弾けばおしまい、という世界であり、逆に政治家たちが立派な教育法を作ろうと画策しても、文部科学省にて話がまとまらなければ形にならない、という関係である。
 これはその事務次官を退職した著者が政治への憎しみを綴った本である。そのタイトルは「面従腹背」という事で、文部科学省に圧力を掛ける政治支配を問題にして論う狙いのようだ。しかし日本国民の学問を預かるその業務に「面では従いながらも腹では背いて」国家に対するスパイ行為をしていたとも読めるので、一般の国民は混乱してしまう。最も優れた人格者がスパイで良いのか。またはスパイ行為をしなければならないほど国政の方が歪んでいるのかもしれない。ところが話題を呼んだセンセーショナルなタイトルとは裏腹に内容の方は全くと言えるほど話題にならなかった。誰から見ても期待外れだったのだ。
 どうも何かがおかしい。そもそも著者は省庁の事務次官まで上り詰めたのだから、社会の面とはこの人を言うのではないのか。その著者が何かに反抗を行ったのであれば腹従面背と言うべきだろう。
 
「無能か」
 この著者は何をしたかったのだろうか。そのおかしな行動を説明するのに適当な例として出会い系バーという変な風俗店がある。
 出会い系と称すのだから恋愛行為を売り物にしている風俗営業なのだが、店舗自体は飲食経営であり、性行為は行われない。男性客は店に飲食代を支払って滞在し、店に来ている女性客と会話をして、両者の気が合えば「女性と店に」連れ出し料金を支払ってデートをしに行く。出て行った二人がその先で何をしようとも店は関知しない立場を取るから法律で禁止される売春の周旋には当たらない。それでは売春が起こらないかと思うと、これが意外にも客を装う女性から個人的に売春を仕掛ける。従来の違法売春では周旋する営業店が女性への配当も安全管理も請け負っていた。しかしこの新しい形態の売春では、売春で儲けたい女性が個人事業主のように全責任を負い、店は手頃な男性客を集めてそれを斡旋するのだ。女性は店内でゆっくりと今日の相手を物色し、店が男性客の入店時にその身分証明と映像を取ってくれるので、店を介さず客と一対一の売春交渉をするよりも安全に相手を選ぶ事が出来る。
 こうなると女性は強かだ。以前のように売春を契約させられる事がないので、相手の足元を見て値段の交渉もすれば、弱気な男性を見つけると何をさせる事もなく金銭を巧みに引き出してゆく。いきなりそういうのは無理です、なんて言って食事と小遣いを出させるなど朝飯前だ。警察に捕まったら自由恋愛だと言えば逃げられる。面倒になったら男性を捨て置いて店に帰れば(女性と店はグルなので)守ってもらえるし、危険があれば今までと違って警察を呼べる。店も楽だし売春婦も楽だし、あとはこれに引っ掛かる男性客を捕まえるだけで成り立つわけだ。果たしてそんな愚かな男性がいるのだろうか。
 いるのだ。金銭的事情や社会的身分のためにキャバクラへ通えない者で、あからさまな性風俗店をためらう精神的弱みを持ちながら、それでも金銭の力に頼って女性を欲しがるような男である。これを簡単に言い換えると、面ではまともに社会生活をしている振りをして、腹の中はケチで臆病で傲慢な助平という事になるだろう。さてようやく今回の論点が見えて来た。己の不道徳な本性に背いて社会の仮面を被っている男が、醜い本性のままに従って自己を慰めたいという欲求を腹に温めているが、その反面の言い訳をしなければならない立場によって、逆の事を言う。本当は売春婦からカモにされているのを勘違いして喜んでいるわけだが、女性の貧困を調査するために出会い系バーから連れ出して食事をし小遣いをあげたりしていたと、自分の方が優位な社会面に立っていたかのように言い訳を展開する。仮に彼が買春をしていたと発覚すれば文部科学省の事務次官が法を犯して不倫買春をした大事件になるだろうから、彼はこの言い訳で上手く逃げたと思うだろう。出会い系バーの自由恋愛の言い逃れは男性側も使えるのだ。ところがこれで買春を本当にしていないとなると、それが無能なカモである証明になってしまう。
 はてさて、学問を統括する文部科学省の官僚トップはスパイか無能か。あらゆる交流のあり方を設計する文部科学省と言えども援助交際(と言い訳をする売春)の助成は管轄外だろう。貧困を調査しに行ったと言う彼はこの店に来る女性が売春を求めている裏事情を知っていた。そこに金銭の授受があった時点で買春は成立している。ところが性行為はなかったと言い訳をすればその不道徳を見逃してもらえるのだと甘ったれた心が、法律の隙間ばかり悪用する思考を育くみ、彼はこれを教育の自由と呼んでしまう。
 
「寂しがりの弱さ」
 では、本の内容を今回は執筆の出来から査定して行こう。
 言葉の使い方においては綺麗であるし正しい。読者に想定した人たちへ向けて言葉の難度を適度に抑えつつ法律の問題を丁寧に解説している。ところが文章を見ると乱筆になり本書全体では何を言いたいのか分からない。細かく章節分けをして、そこでの言いたい事は概ね一つにまとまっているが、章節の意味が互いに連携する一つの本にはなっていない。意味においては浅はかで、例えば憲法の理念に違反する教育をいけないと論じるまでは正しくとも、憲法の方が間違っている可能性までは考察しない。そこまで論じると他の事を書く余裕がなくなってしまうから削ったのだとは思われるが、削れば意味は浅くなる。総じて、主張をただ並べて文面の整合性にだけ気を取られた御役所仕事のような本である。
 この意味の浅はかは読書の障害となってしまう。この本は何にせよ面従腹背をしていると銘打っているのだから読者はその内容を信用する事が出来ないという特徴を持っている。即ち著者の腹中を表しているのかどうかの担保が取れない。だからその内容は全て嘘かもしれない。この場合でも意味を深めようとする文章であればその分の精査は出来るだろうが、浅く著者の意見を並べただけでは、嘘つきが真面目に書いたという真意を確かめようがない。著者自身が自分は嘘つきだ(面と腹が違う)と言っているわけなのだ。著者は自分をさも善人であるが如く自尊の実績を並べ立てるのだが、嘘をついて本を書く行為が悪行なので、矛盾する執筆と内容では意味の確立が出来ない。
 この矛盾は本の内容にも看過され得ない影を落とす。その主張の中には著者の教育論にかこつけて与党自由民主党(特に安倍政権)に対する悪評を、著者の応援する共産党の共の字さえ隠しながら、印象操作のために散りばめている。しかしこの著者を文部科学省の事務次官に任命したのは自由民主党の内閣なのだ。著者は政府と文部科学省が対立構造であるかのように書いているが、本来は内閣の提案により国会で承認された業務を運営する機関が文部科学省などの省庁であり、対立するものではない。しかも2009年からあった民主党内閣を批判の対象から外しており自由民主党だけを貶めようとする狡猾である。つまり著者は文部科学省(並びに日本の教育)を自分の政治運動のために利用したわけなのだ。これを著者はその業務に反してスパイ活動をする正当性が個人の尊厳によるものだと主張しているが、そのような意見まで自由民主党の政府は無下にせず公に取り上げていたという事になる。読者の目には、取り上げてもらって悪態をつく著者の姿勢が矛盾に映る。
 しかもこれで共産党の有利になるかというと、そうでもない。なぜなら著者が本書で言い張るのは自由主義だからだ。その思想はむしろ自由民主党に近い。だから本書は、自由民主党に任命された事務次官が自由主義を賛美しつつ自由民主党に反抗するという、訳の分からない内容になっている。そして国家機関の椅子に甘んじた上で国家体制を批判するのだから、誰の目から見ても裏切り者になってしまう。なんと斬新な告白本だろう。普通なら自分は裏切り者ではないと言い訳をするところで、この著者は何を倒錯したのか、自分から裏切り者だと言い訳を始めたのである。つまり言い訳をして守りたいものが普通の人と違うのだ。
 本書には著者が高らかに唱える教育思想の脇にチームワークを苦手とした描写がいくつもある。最初は国会に単身で乗り込んだ共産党青年部の若者に同情するところから始まり、文部省の同僚との付き合いに馴染めなかった回想を話すと、自身が幼少時代に不登校であった経験から、フリースクールや夜間学校の支援策を推し進めた活動を書く。海外赴任は楽しかったらしく、ここから自国を嫌い、海外志向になる。それでも自分を教師と慕ってくれる学生には心を開く。朝鮮学校への援助も賛成だ。こうして著者は青春のような交流を育むと、それを妨害するものを敵視するようになり、それが文部科学省のような国家体制だと思い込み始める。文部科学省は交流を設計する機関なのだから喜びのある交流を増やしたいと思ったのだろう。最後は官僚を辞めた彼に新しい友だちも出来たと締め括っている。
 つまり、著者が言い訳をして守りたかったものは、彼の大切にする交流なのだ。学校教育や国家機関に馴染めなかった自分と、社会的弱者を重ねて見て、国家と戦えば彼らとの友情を守れると思っているわけだ。だから裏切り者の汚名を晴らすどころか自ら受けようとする。この本で著者は友情を重んじた行動を国民から理解してもらえると思っているのだ。だが、彼のその青春は国の金を配って得た仮初めの交流である。下衆の者たちは出会い系バーの売春婦のように決して弱者ではない。寂しい訳ありの弱点をもった金づるが現れたら友情を育んで金を引き出すだろう。ちょっと優しくしてやれば国庫から金が出て来る。こうして見ると彼が友情を育んだ者はみんな彼から利を引き出せる者たちばかりだ。政府や官僚たちは彼の暴走を正常に止める。しかしこれを著者は国家に交流を邪魔されたと思う。そして自分の意のままにならない全体決定に「面従腹背」させられたと言う。
 
「言い訳の自由」
 以上この本のレベルから著者の人格を問題視するような批評しか書けなかった。しかしそれだけでは残念になるので本のテーマである「教育」について私も物申したい。
 特別に指摘しておかなければならないのは著者が論旨のすり替えに利用している、学問と教育の意味の違いだ。学問とは人々の学習が世に広まる事(学の流通)であり憲法はこの自由を明記している。即ち国民の求める情報を制御してはならないという意味である。これに対して教育は、未熟な者を教え育むという「教える側の行為」となる。例えば泥棒の親が子に強盗のやり方を教えるのも教育になる。これは国家として自由にさせるわけにはいかない。親が子に何を教えるのも自由ではないかと思われるかもしれないが、憲法は教育を自由だと定義していないのだ。教育は必ずしも学問ではないからだ。
 では教育が政治に支配されるものなのかというと、その通り、国家主導の学校教育は国に支配される。これは憲法第八十九条に明記されていて「公の支配に属しない教育に支出してはならない」とある。即ち文部科学省は国家に支配される教育としか関わってはいけない。本当は著者が憧憬するというユネスコに出資している現状も憲法違反である。これは役人が恣意的に国家を利用して懇意の団体へ援助する悪事を咎めるための決まりだと言えるだろう。著者が主張している自由な学校教育の思想はこの憲法により全て誤りであると言える。国家教育に個人の自由はない。個人が自由に教育をしたいなら私塾を開いて個人の責任においてやれば良いのである。
 ならばどうやって学問の自由を守れば良いかと言えばそれは教育の最小化である。自由だと謳う教育を広めるのではなく、教育の機会を減らして、学問の機会を増やす。究極に学問の自由を求めるならば文部科学省も学校も消滅させれば良いのである。しかし憲法には普通教育を受けさせる義務も書かれているので普通の範囲内のものを消滅させるわけにはいかない。つまり必要最小限にすべきという解になる。著者が法制化に尽力したと自尊する教育の選択の拡充は、一見すると学問の自由化に近づいたようにも見えてしまうが、その実は教育の最小化に逆行して教育による管理範囲を増やしてしまい、それは学問の自由を奪ってしまう事になる。
 著者は政治家が教育現場に影響を及ぼす事を「政治家たちの納得を得るために現場にしわ寄せがいく」(P.86)と書いている。確かに思慮の不足した政治家による発案は現場に混乱をもたらすだろう。しかし著者のように勘違いを披露する役人が発案をしても現場は混乱するのだ。例えばボランティア活動を高等学校の履修単位として選択可能にしたところで、それで大学受験に対応出来るわけではない。仮に受験科目としてボランティア試験を導入すれば、入学者の学力はさらに低下するだろうし、現場は試験対応に追われて忙しくなり、教育サービスの質は低下する。自由選択などと謳って目的を見失った選択を増やせば迷わされるのは生徒たちだ。もし生徒が選択を失敗した事により将来に損害が出たら誰が責任を取れるというのか。教育者から生徒への責任転嫁は虐待に等しい。
 この著者ら無責任な官僚発案のせいで実際に現場は「ひとしく教育を受ける権利」を損害してしまう。私が通った高校の数学教師は授業をしばしば放棄した。それを彼は「高校教師には自由に有給を取ってサボっていい権利がある」と言いのけた。授業に出て来ても「お前たちが自分から勉強するべきものだから分からなければ質問すればいい」と言って授業を無言で過ごしたり、出来の悪い生徒を罵倒した。「お前たちは義務でもない教育を受けているのだからこれが気に入らないなら辞めろ」とも言った。他の学校には受験対策をしっかりやる教師がいただろうし、これよりもっと醜い教師もいたかもしれない。これが教育の自由化というものの実態だった。教育とは「教える側の行為」なのだから自由化したところで教わる側に自由はない。結局、彼らの言う自由とは責任をもたなければならない者が責任逃れをする言い訳に使うものなのだ。
 著者のような1960年前後の世代にこの履き違えた自由は流行した。彼らの無責任な好き勝手は後に続く世代が尻拭いさせられるのだ。本の最後に著者は「面従腹背」をやめてこれからは「眼横鼻直」(ありのままの自分)になると言い出すがそれも駄目だ。反省して責任をもつ事を今からでも学び直して欲しい。優れた人格者とは己を律して社会のために奉仕する人である。

 
要約。
はじめに
 組織の方針に従わなければならない。しかし個人の見解は自由だ。
 組織人は職務においても自分が尊厳のある個人として自由な精神を持ってほしい。
 公務員も一人の国民だ。
 私は1979年から文部省(文部科学省)で38年働いた。
 公務員は「全体の奉仕者」になるために、一個人、一国民である。私は組織に面従して残留し、自分の考える利益に近づく組織に転換しようと思って腹背した。この本は私の面従腹背の38年を思い出すままに書き連ねたものである。
 
第1章 文部官僚としての葛藤
 1979年の文部省では省内に酒を持ち込み賭け麻雀をしていた。私は若手を集めて青臭い書生論の会を開いた。
 私は奉祝運営委員会(民間団体)が行った「建国記念の日」式典に大臣官房総務課の課長だった加戸守行氏の職務命令により出席させられた。建国が2月11日とされることは私の思う日本国憲法とは相容れない。
 1980年頃の文部省は空出張で裏金を作りスナックバーで飲んでいた。宮城県教育委員会の裏金を目当てに高石邦男元文部事務次官のパーティ券を文教施設部助成課から買うように求められた。私は上司の家来のように麻雀飲酒カラオケゴルフに付き合わされた。
 公文書作成のためのお役所言葉は国民に分からないので使うべきではない。

 私は夜間中学やフリースクールを活用する教育機会確保法の立法作業に携わることができて幸運だった。
 私は上智大学で教育行政学の非常勤講師を努めた。私の学問的良心を書いたテキストには「個性を最大限に伸長させて自らの幸福を自ら追求できるようになるためには、教育は不可欠の前提条件である」「個の確立、個人の自立は現代社会の存立の最も基本的な条件である。個の確立とは、まず、自らを肯定し、自尊心を持ち、自ら考え、自ら判断し、人の言いなりにならないということだ。そのためには、科学的、合理的、実証主義的な精神、健全な懐疑主義が必要だ。自立した個人は、自らの意志で行動し、その結果を自らの責任として引き受ける」「個人の尊厳に基礎をおかない超越的な価値(国家、民族、伝統、共同体など)を認めたとたんに、個人の尊厳は際限なく掘り崩される危険に直面するのである」と書いた。

 私は朝鮮初級学校から中学校への進学を認めない文科省の改善を求める福島みずほ議員の質問に担当課が作成した答弁を破棄して「文科省は黙認しています」と答えた。
 私は高校生がどんどん好きな勉強をしたら良いと思っていた。しかし高校生の大学での学習の成果を高校の単位として認める制度を作ろうとしても初等中等教育局(初中局)は取り合わなかった。
 私は公立の中高一貫校の設置を推進した。いまや全国で100校を超えたので設置にブレーキをかけるべきだと思っている。
 スイスのNGOが認定する初等中等教育プログラムへの参加も初中局に阻止された。今や文科省はこれを促進している。外国人を受け入れて日本人を海外に進学させるために必要だ。
 5年制高等学校看護専攻科から大学3年生への編入を実現した。この国は教育制度に法令が「過度の制度化」をしてる問題がある。

 私の憧憬するユネスコはアメリカ人の赤狩りによって政治化され、政治化を理由にアメリカが脱退した。
 1991年に日本外務省の意向によりユネスコの執行委員を個人から国の代表に変える改正案を成立した。私は本心においてはこの改正に反対しながら各国の支持を集めることに成功した。
 
第2章 面従腹背の教育行政
 教員免許状に有効期限を設けて教員の適格性審査をする案が自民党から出されて、その可能性を検討することになったのは政治圧力が高まることが想定されて残念だ。
 これにたいして中央教育審議会(中教審)は免許制度の抜本的な改正を拒否し、教員の質向上の有効性にも疑問を述べて反対した。しかし政治家を納得させるために在職10年の教員に評価と研修計画書を作成させる10年経験者研修者制度を導入することになった。
 それでも与党政治家は教員免許更新制の導入を求めて2006年第1次安倍内閣で改正が実現した。文部官僚が問題教員排除の制度化を盛り込んだ。
 もともと研修は教員が自発的に行うものである。

 私は有力な若手が登用される教育課程行政に携われなかった。2011年度から小・中学校の脱ゆとり路線になり「総合的な学習の時間」が減ったことに私は反対だったし、授業時間は増やしすぎたと思う。
 私自身は日の丸・君が代を日本という国のシンボルとして尊重することに抵抗感はないが、両者に違和感や抵抗感を抱くことは内心の自由であり、国家権力による制約を一切拒否できる性格のものだと考えている。入学式や卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱は1989年の学習指導要領改訂で法的拘束力をもって強制されることになった。
 しかし、私立学校の中にはこの法的義務に従わない学校がたくさんある。これは不公平だ。
 1994年の村山富市内閣は「児童の内心にまで立ち入って強制はしない」という政府見解を出した。
 私は、現在文部科学省が毎年行っている全国学力・学習状況調査(全国学テ)に反対だ。実施を義務づける法令などないのにすべての公立学校が実施しているのは不健全だ。

 2011年から2014年に沖縄県八重山では中学校で採用する公民の教科書をどの出版社にするか教育委員会の意見が割れた。石垣市の玉津博克教育長と自民党の義家弘介衆議院議員の意見に当時の初中局は迎合した。
 竹富町はこれに従わなかった。初中局長になった私は竹富町を是正するべきだと考えていなかったが、下村大臣と義家政務官の指示に従って沖縄県教育委員会に指導した。
 しかし私は沖縄県の諸見里里明教育長と竹富町の慶田盛安三教育長を呼んでこれに従わないよう本音の相談をした。私は教科書無償措置法の改正案に市町村が単独で教科書を採択できるよう盛り込んで解決した。
 
第3章 教育は誰のものか
 2003年には七生養護学校が開発した知的障害児のための性教育プログラムに都議会が批判した。土屋敬之都議、古賀俊昭都議、田代博嗣都議の3人が七生養護学校に押しかけて暴力に及び、都教育委員会は教職員116人を処分した。裁判所はこれを都議による「不当な支配」に当たると判示した。教育行政が踏み越えてはならない限界をいうものをわきまえろ。
 同様に2018年に私が授業を行った名古屋市八王子中学校に文部科学省の教育課程課から質問状が届いた。これは自民党文部科学部会の赤池誠章氏と池田佳隆氏の圧力だ。文部科学省の後輩たちには教育と行政のあり方について考えてほしい。
 子どもの学習内容や方法は誰がどう決めたらよいのか一義的には答えは出ない。親か教師か文科大臣か法律か。
 2006年改正の教育基本法では教育への無制限な政治介入を許しかねない。
 これを防ぐのが審議会である。
 しかし下村大臣は自分の考えを中教審委員の人選に反映させたので文部官僚は審議会を利用した面従腹背をしにくくなった。

 教育基本法改正は1980年代の中曽根内閣に始まった。中曽根氏にとって国家とは民族共同体であり教育は構成員の教化だ。
 しかし臨時教育審議会は国家より「個性重視の原則」を打ち出した。これ以後に教育改革は学習者の主体性を重視して、高校の単位制や中学の地区独自の特例を認めるなど、多様な個性を生かす具体策を展開した。
 小渕恵三首相は中曽根氏の国家観と異なり「個と公」の関係の再構築を目指して「教育改革国民会議」を設置したが翌4月に病に倒れた。
 跡を引き継いで教育基本法の早期改正を促したのが森喜朗首相である。
 与党の協議会では公明党がストッパーの役割を果たした。山下栄一参議院議員は改正後第16条の教育について「不当な支配に服することなく」「法律の定めるところにより」(教育が行われるべき)という言葉を「教育の自主性」「教育の政治的中立性」を継承し、教育行政が恣意的権力的に実施されることを避けようという趣旨だと解説した。しかし小阪文部科学大臣は「法律に定めるところにより行われる教育が不当な支配に服するものではないことを明確にした」と国会で答弁した。
 私は個人として教育基本法の改正には反対だったが、法案の早期成立に向けての根回しなどを行った。

 2018年から本格実施される道徳科の検定済み教科書は、憲法的価値と一致するものが極めて小さく、憲法からは導き出せない日本という国への帰属意識が並べられている。「個人の尊厳」と「地球市民」の視点が欠けている。
 安倍内閣では教育勅語に対する肯定的な発言が相次いでいる。学習指導要領に記述されている先祖や国家を重んじる姿勢は皇室国家に尽くす國體思想(こくたいしそう)に進む危険性をはらんでいる。
 文部科学省は価値観を一方的に教え込まないよう「考え、議論する道徳」を示している。
 
第4章 特別座談会 加計学園問題の全貌を激白
 寺脇研(京都造形芸術大学教授)×前川喜平(前文部科学事務次官)×倉重篤郎(毎日新聞専門編集委員)の対談。
 加計学園の獣医学部認可について加計孝太郎理事長の友人である安倍晋太郎首相が便宜を図ったのではないかという推論。
 
あとがき
 面従腹背をやめて眼横鼻直を座右の銘にしようと思う。
 
Twitterなら何でも言える ほぼ独り言の「腹背発言集」
 2012年12月から2018年3月まで Twitter に書き込んだ著者の思想発言。

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