映画「舟を編む」

ニ(意味レベル):何のお話も描き切れていない。
2(形容ステップ):言葉と生活に関する好奇心。

 
2013年劇場公開。
監督:石井裕也。制作:松竹、アスミック・エース。
主演:松田龍平(新人編集者)、助演:宮﨑あおい(主人公の恋人)、オダギリジョー(先輩同僚)、加藤剛(編集監修者)、他20名以上。
劇映画133分。
構成スタイル:ドラマ調(複数の人物の物語)日記(出来事の列挙)。
主張:娯楽。
ジャンルと要素:私小説(生活描写が主体)、コメディ(舞台演技)、人情(仲間)、青春(職場)、二次創作(小説本を原作)、ほか。

 
批評「舟はどこにあるのか」
 三浦しをんの同名小説を映画化した作品である。とある出版社の辞書制作部において時代風潮の変化により国語辞書の必要性が薄れてゆく中でその仕事を引き継いだ主人公の馬締(まじめ:松田龍平)とその同僚たちは人生を懸けて新しい辞書を完成させる。こう一言で表して作品の全てであり、映画という媒体なら何でも見ていられる程の数寄者を除いて、これを二時間も見るのは無駄でしかない。
 どんなアマチュアが適当に制作してもこのくらいは出来るだろう「シナリオ棒読み」の映画となっていて、演出、構成、カメラ、演技、音楽、編集、どこを取っても褒められる部分が見つからない。何より悪いのはこの映画でなければ成らない独特の表現がない。何もかも別の映画を繋ぎ合わせたような古臭い流れになっていて制作者たちの実は映画を好きではないだろう気だるさが映画の隅まで充満している。
 映画に限った事ではないが監督業というのは制作をまとめ上げるリーダーであるから、このプロジェクトを何のために、どういうやり方で作り、誰に使って(見て)もらうのか、はっきりと完成のビジョンを制作前に己の瞼の中に見ていなければ成らない。これを曖昧にしたまま制作をスタートさせるのは、仕込みもメニューもまま成らない料理屋を開くようなもので、その行き当たりばったりの制作は他店の真似をしなければ営業が回らなくなる。映画を分からない人は同じ様なシーンを二回出されても何とも思わないらしいが、料理屋のコースで先程食べた料理をまた出されたら目を疑うだろう。
 映画の舞台となる薄暗い編集室は中途半端に位置を取ったカメラが同じ様なシーンを撮り続けて全く進展を見られない。寄るでもなく離れるでもなく、役者の表情も良く見えないし、声も綺麗に録れていないし、その割に演技も棒立ちでボソボソ喋るだけでは見栄えもないし、映画ならではの魅力を思い描けないのであればそのプロジェクトをやるのは無駄である。多くの人の目を借りてこれを見てもらいたいんだと言うたった一つの思いさえないのであれば、そんな仕事はやらない方が良い。出来る人というのはどんな仕事にでも思いを込めるもので、仮に自分と相性の悪い仕事が舞い込んでも、必ず自分の足跡を残そうと努力する。これを出来ないアマチュアほど仕事を選ぼうとするし、形なりの仕事を仕上げては、やっておきながら言い訳ばかりする。
 表題の「舟を編む」とは言葉の海に船出する辞書編集の現場を表しているようだが、この映画では言葉を書いた紙をプールにいっぱい浮かべて、主人公がそこに降りて溺れるという下らない演出で表現されている。そんな言い訳じみた絵でも観客はどうせ騙されるのだろうという甘ったれがこの映画の全てだ。舟とは何なのか。例え原作がそれを表現し切れていない駄作だったとしても、映画に作り直すと引き受けたのであれば監督は「舟」と「編む」くらいは自分の思いを込めなければ成らない。プールに潜ってあっぷっぷで舟を編みましたと本気で言っているなら、このスタッフはそれほど映画を嫌いなのだろう。
 脚本は特に駄目で、辞書編集の苦労を一切画面に表せない。予算を削られたとか、部員が転属になったとか、その程度の苦難はどの職場でもある事件であり、言葉の大海原とは関係がない。やっている作業と言えば辞書に掲載する言葉の選別と飲み会の繰り返しで、こんなに楽ちんな職場があるのかと、目を疑うばかりだ。二時間の中で何回居酒屋へ行っただろう。このまま何事もなくどう成るのかと思いきや、行き成り「12年後」というテロップが入って辞書は完成する。完成まで時間が掛かるという唯一の苦労は一言で片付けられた。こうまでされると「大渡海」という辞書の名前さえ視聴者を馬鹿にするための罠なのかと思えて来る。酒瓶の名前と見間違えたか。
 演出も酷く、ヒロインが香具矢(かぐや:宮崎あおい)という名前だから月を大きくしておけば良いと合成して、これを映しただけで主人公は恋をする。もう一度言うが、この映画は月がでかいと恋をする。見ていても意味は不明でさっぱり分からないのだが、それで恋をして十二年後には難なく結婚しているのだから、そういうものなのだろうと推し量ってあげるしかない。一カット毎の絵もカメラとライトの使い方が成っていない。全編が同じ様に暗く写ってしまっているのに、お話が軽いために、辞書編集の苦労は絵に成らない。どこを暗く苦悩し、どこで明るく成功して、だから辞書が出来たのだという演出がまるで考えられていないのだ。無意味な絵でも良いならどんなアマチュアでも撮れるだろう。
 演技も音楽も活きていない。辞書制作の現場に関わる何人もの人生が描かれるのでそれぞれにテーマがあって完結しなければ成らないものを演者の誰も描き切れていない。結婚したとか癌で死ぬとか、辞書と何の関係があるのだろう。場面を繋ぐ間抜けな音楽も相まってこれが本気なのだか冗談なのかも分からない。観客のこちらは笑って良いのか泣けば良いのか何とも思えない。
 結局この映画は舟を見失っている。編集部が舟であるのなら途中で部員たちが解散する物語だと舟に穴が開いてしまうし、主人公の人生が舟ならば言葉の海に舵を切る意思の描写が足りない。辞書を舟と言うのならそれで大都会を渡るお話がなければ駄目だ。素直に「辞書を編む」では駄目なのか。どうして舟に例えた。言葉で海を表現出来ているか。そのくらいは最低でも準備をしておかなければプロの仕事とは言えないだろう。まさかこれを映画だと褒める同業はいるまいな。

 何の仕事においても言えるが「この仕事が人生最後の仕事かもしれない」と覚悟して立ち向かう本気が必要である。それでこれなら文句も言えないが、次も見てもらえるとは思うなかれ。

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