聖書1 聖書とは何か

 四回に分けて聖書を解説する。初回のここでは解説を理解するために聖書の概要として必ず知っておかなければならない事を説明する。基礎的な内容ではあれど取りこぼしがあるといけないので確認を兼ねて最初に必ず目を通して頂きたい。

 
「言葉と戦うために」
 西暦2018年のはじまりにこれを書く。今日では日本でも西暦を使われる事が多くなったが西暦とは預言者イエスのもたらしたキリスト教時代を示す元号であり、これは聖書によって成り立つのだから、この書物は二千年を今日まで生きて極東の異文化国の天皇元号まで脅かすくらい人類文化に最も長大な影響を与えている本だと分かるだろう。
 それなのに我ら日本人はこの影響力を過小評価している。日本人は世界中の異文化と交流したり取引をしている割に聖書を読むのは各人の趣味の範疇だと軽く捉える事が多い。日本語文化圏の外は英語を筆頭とした西洋文化がほとんどの人類を支配しており、それが聖書によって成り立っているのだという事を実感として信じる事が出来ないからだ。しかし西洋人は聖書を思索の趣味では無く実感として信じて来た。聖書の言葉を通じて世界を把握しようと二千年も勉強して来たのだ。ところが西洋文化が大戦後の日本に侵入して日本人は英語を必修科目として習うようになったのに聖書を知らないのだ。それで日本人は西洋からもたらされた聖書の文化を、例えば愛はラヴだと、知っている振りをしつつも心からの信用が出来ないというコンプレックスに悩まされる。
 我々は一体何と交流して来たのだろう。現代の人類社会が荒む理由の多くが聖書の問題であると気を付けるだろうか。例えば近年に勃興したイスラム国へ西洋連合軍が爆撃をする様態が聖書の実演なのだと理解出来るだろうか。そこから大量の難民が欧州諸国に流れているのはイスラム民族をキリスト教へ改宗させよう(つまりキリスト教文化によって救ってやろう)と目論む欧州の下心が招いた事件なのだと見抜けるだろうか。日本人の目には何かよく分からない内戦を起こしてしまったイスラム人が爆撃に追われて欧州へ避難しているように映っているのではないか。そして断続的に繰り返される自爆テロは追いつめられたイスラム人の頭がおかしくなった捨て身の攻撃なのだと勘違いしているのではないか。本当はこれら戦争の一連こそ聖書が起こしているものであり、彼らの命の動向(運命)はこの一冊の本に決められているのだと信じられるだろうか。
 全ての学者はこの本を恐れるに違いない。変哲も無いように見えるたった一つの言葉が多くの人生を縛り付け、粗のように見える拙い文章が数え切れない程の命を奪って来た歴史事実を知っているからだ。それなのに頁をめくる度にどこを取り上げても粗だらけの文章が主張して来て一体どの言葉が世界を混乱に導いているのか解らない。だから文章の間違いを見つけて指摘出来たとしても、世界が既に動いてしまっている事実が重くのしかかって来て、「お前の言う間違いとは何か」をこの本は煩く問い返すだろう。例えば戦争を助長する反倫理の文章だとしてこの本を糾弾しようとも、逆に言えば人類の性を的確に表した倫理的成功なのだと返されたらそれ以上に言える事がなくなってしまう。確かに戦争と倫理について書かれていて、その歴史が事実としてあるのなら、本書を間違いだとは言えない。そこにかこつけて信者たちが暴力的な実行を伴う反論をして来るものだから批判をする学者はその余計な面倒にまで頭を悩ませる。
 しかし二千年が経った。この本は既に数え切れない程の命を奪った。それもまた真実であり、見てみ見ぬ振りをしたところで平和が訪れない事もまた歴史に証明されて来たのだ。そろそろ全ての学者は全ての言葉と戦い始めなければならないと私は思う。誰の意見が正しいのかを証明するためではなく、言葉を問い続ける事にこそ哲学の意義があるからだ。我々の敵は憐れな宗教家などでは無く、言葉という恐ろしい化け物だ。愛や平和を唱える前に先ずその意味の正体を見つけなければ我々人類は自ら生み出した言葉という道具にいつまでも人生を支配され続けるだろう。
 今から聖書の裁断を始める。これは人類の自由のためだ。
 
「聖なる書か」
 聖書を論じる前に聖書の概要を説明しなければならないだろう。
 この文書の本当の名前は分からない。古代イスラエル人の残した文書群をまとめる際にギリシア語「Biblia」から派生した各国の言葉で呼ばれて、日本では聖書と訳す。「聖」は「神聖」なる意味で一般的に「宗教的誠実である」と理解されるようだが、本書(新共同訳聖書)では「神の言葉それ自体」を書き残した物であるという見解で一致しているようだ。しかし翻訳者の書いた端書のⅡ頁には翻訳において「原文を完全に再現するために、忠実であり、正確であること」を方針としつつも「聖書にふさわしい権威、品位を保持した文体」に直される事になり「果たして完全な翻訳がありうるかと問われたならば、その答えは、否、でありましょう」と書かれている。つまり日本語の聖書は人の思惑が入ってしまっているので神聖では無い。完全な翻訳が日本語以外でも不可能であるなら古代ヘブライ語を常用していないほぼ全ての信者たちが翻訳者らの改ざんした文書に騙されている事になる。
 そもそもの問題として神はヘブライ語を話すのか解らない。というのも聖書は神が文字を書いたのでは無く、預言者と呼ばれる僅か数名の特別な人間が彼らにしか認識出来ない「神という存在」から預かった言葉を口頭で周囲に伝えて、それを語り継いだ他の誰かが書き残した物だからだ。書いたのが誰なのかも分からない。しかも原書では『創世記』を含む預言者モーセの伝えたらしい聖書が古代ヘブライ語で書かれ、後世に現れた預言者イエスの伝えたらしい追加部分(新約聖書)はギリシア語で書かれている。神がバイリンガルであったのか預言者のいない現在では確かめようも無く、実は言語では無い意志のようなメッセージを神から受けた預言者によって意訳されたものかもしれないし、イエスもヘブライ語で話したのに聖書の記述者がギリシア語に直したのかもしれない。確実に言えるのは、現代に聖書を読む者と神との間には少なくとも三人の思考(預言者、記述者、翻訳者)が入っているという事である。すなわち聖書は神の言葉そのものでも無い。
 では神とは何か。これもよく解らない。日本語では神という訳語を当てられているが日本の八百万の神々とは異質の存在であり、名前はあるがその本当の呼び名は誰も知らない。それ故に他の神々と区別するため「唯一神」とか「絶対神」と適当に呼ばれる。聖書の文章から考察や類推する事は可能であるが、真実は預言者しか知り得ないのだからその存在を普通の人が確かめる事は出来ない。そして聖書こそが神の言葉を聞いた証であると言えるなら、聖書に名が記されている預言者だけが確かな預言者だという事になる訳で、預言者は他に新しく確認され得ない。例えば現代において神の言葉を聞いたと嘯く自称預言者が現れたとしても、その者の言う神と唯一神が同一の神である証明が出来なければ正統な預言者として認められないし、その証明を出来る物もまた聖書しか無いのだ。つまり聖書が確定している今日にはもう預言者は生まれないし、だから神を確かめる手段も無いのである。
 では聖書の中には何が書かれているのか。主な内容は預言をした古代イスラエル人の民族史である。章によって変化が見られ、発端の『創世記』は神と世界の創始について神話的に語られ始めるが、続く『出エジプト記』から『申命記』まではモーセという人物が登場して新しい共同体を確立した物語と宗教的な生活が説明される。ここまでの五書が正統な聖書として聖書信仰のあらゆる分派においても間違いの無い聖書であるようだ。
 しかし以後の文書には聖書足りうるか賛否がある。モーセの五書と同じように一族から出た預言者が成功してゆく物語が続いて書かれていはいるのだが、彼らの共同体が大きくなり過ぎて誰が正統の預言者なのか分からなくなると、多くの者が神について語り出して真実性が怪しくなるのだ。故に聖書には一族の正統な家系を確かめる記述が何度も繰り返されて、預言よりも歴史事実の方が重視されるようになって、突然に書かれなくなる。書き継ごうとした動きはあったようだが信者の多数に聖書として認められる物が作れなくなったのだ。つまり聖書はある民族の歴史経験を徐々に書き足していった民俗史料の一つに過ぎないのだが彼らの民族が多様になったせいで一つにまとめらなくなったのだ。
 特にアッシリア国により征服された時代から民族が離散しているので正統が分からなくなってしまった。自分が聖書に書かれているイスラエル人かどうかは自称するしかなくなってしまうのだ。聖書はこれを恐れた一族の者か、またはこの機を利用しようとした部外者が編集した可能性が高く、今日に言われているような全人類へ教えを説くために聖なる書を作ろうとする意志があったようには書かれていないし、ましてや未来を占う(我々現代人まで拘束する)預言書では全く無い。はっきりと言ってしまうと、この聖書が本当の聖書なのかどうかさえ誰にも判断は付けられない。
 ところがここにイエスという天才が生まれてしまう。彼は全人類に聖なる教えを説く事を望み、預言者を自称してイスラエルの正統を乗っ取ってしまうのだ。イスラエル人たちは当然の事として彼の排除を実践するのだが、その才能に太刀打ち出来る者がいなかった。こうして聖書には、イスラエル民族史とは全く違うイエスの説教集が不格好にも付け足される事になり、イエスの信者は自分たちをキリスト(正しく神から香油を受けた者)の教徒だと名乗りを上げて、イスラエル史料を古い聖書だとしてイエスの説教を新訳聖書と呼ぶようになり、対するイスラエル人たちは今日までイエスに関する文書を聖書とは認めずに戦っている。この後さらにムハンマドという人物が現れてイエスのように聖書を自分のものにしようと企むのだが、こちらはイスラエルとキリスト教徒の両方に排斥されたので、別にイスラム独自の聖書クルアーン(コーラン)を編み出す事になる。同じ神を信じているのだから仲良くすれば良いと短絡に考える部外者も少なくないだろうが、この乗っ取りを許せばオリジナルであるイスラエル民族の正統性及び彼らを繋ぐ唯一絶対の信仰は揺らいでしまうのだ。
 イスラエル人がこの神への信仰を失って他民族による勝手な信仰を認めれば一族は起源の教えを失って離散してしまう。つまりは滅亡だ。このためにイスラエル人が信仰する神を自分たちのものとして唯一絶対の神なのだと必死で守り抜くのは理解出来るだろう。しかしこの唯一神を信仰する中でも最大勢力を誇るキリスト教徒はイエスの教えを守るためにこの神をイスラエルに独占させる訳にはいかないのだ。それを許せばイエスと彼を信じる自分たちが宗教泥棒(偽信者)にされてしまう。そこに参戦したムハンマドとイスラムの信者たちは預言者を自称してもイエスのように聖書の論理を奪えなかったため、聖書の担保となる地域(聖地)を実行で奪う方法に至った。さらにキリスト教徒もイスラムも同族でそれぞれの指導者を奪い合う内部分裂が始まり、そうしている間にユダヤ(イスラエル)人を自称する偽者も沢山生まれて、この全員で一つの神を奪い合うという混乱した状況が現在の聖書の宗教である。
 ここまでをまとめてみよう。聖書は神聖では無い。そもそも聖の字は日本版の独自のものだ。聖書を書いたのは人である。神の言葉では無い。預言の書でも無い。一つの民族史料だ。その民族は今では分からない。ところが現在のイスラエル人は自分をそれだと信じたいので聖書を大事にする。イスラムの民族もそう思っている。そしてキリスト教徒はイエスをそこに含めて欲しい。この三者の争奪に答えを出せる預言者という人はもういない。だから神についても誰も知り得ない。
 どうして皆がこの聖書を欲しがるのか。本論はこれからその論理を解いていく。
 
「呪いの書か」
 ここで呪いについて先に説明して置かなければならない。呪いとは呪術の事である。呪術とは言葉の力を扱う術であり、これはすなわち「言葉で他者を動かす方法」である。間違いの無いように注意したいのは聖書内に「呪われる」と書かれる「curse」(怨念)とは違うという事だ。そういう超常的な影響があるかのように他者を言葉で騙す事が呪いとなる。呪術で他者を動かすために最も基本となるものは命令であり、暴力的な威圧など言葉以外の力を借りずにこれを達成するには、論理の力で相手を納得させる必要がある。
 例えばあなたが他者の持つ果実を欲しくなって「お前の持っている果実をこちらに寄こせ」と言った場合に、その相手は言葉使いから「なんて横暴な奴だろう。こんな奴の命令には従いたくない」と反発するかもしれないが、これを「あなた様の果実をどうか私にも分けて下さい。すみません、お願いします」と言い換えれば「服従するならくれてやろう」と思われるかもしれない。この時に言葉を使う目的は果実を手に入れる事なのだから、一見情けなく見えても後者の方にこそ呪力があり、相手が会話において果実よりも主従関係に気を取られる様子を見抜いているからこそ目的を達成するための言葉を効率良く使う事が出来る。果実を手に入れた後に服従するかどうかは別の話であり、仮に服従を強要されたらまた別の呪術を使って切り抜ける事も可能だろう。これであなたは言葉を吐くだけで果実を手に入れるという超常的な事を達成出来てしまうのだ。ただ空に向かって「果実が欲しい」と言ってもこれは叶わない。
 つまり呪術は、相手の論理の脆弱性を見抜いてこちらに最大限の利益を得られるようにする発言の方法である。争いをコントロールしたり、取引の成果を多くしたり、嫁を得たり、対人関係の様々な場面で呪術は力を発揮する。だからこの呪力を文章にまとめるという事(本を作るという行為)は、後にその文書を読んでしまう者に対して呪いを掛ける狙いがあると言える。すなわち聖書においてはそれを書いた記述者が預言者の呪術を利用して読者に呪いを掛けているのだ。
 以上を踏まえて少しずつ聖書の核心に迫る。つまり預言とは何かだ。
 宗教家は「預言」を「予言」と区別するように推奨する。預は神から言葉を預かって民衆に伝えるもので、予は未来(例えば賭け事の結果など)を予想する事だと説明される。仮に同じ未来を言い当てたとして、自分の信じるモーセら預言者の言葉は神から預かった分だけ一般の未来予想とは格が違うのだと宗教家は主張したい訳だ。しかし一般的にこの二者には違いが無い。何故なら民衆は預言者と違って神の存在を確認出来ないので、預言に神の力が宿っているのかどうかを知り得ない。それでも神の言葉を特別なものだと分かるためには人には出来ないような難しい未来予想を的中してもらうしかないのだ。
 この預言という行為を文書に使うと一つのトリックを得られる。例えば十通りの結末があり得る場合に、十人がそれぞれ別の結末を予想したならその中の一人は必ず正解を言い当てる事が出来るだろう。勿論これではその一人を預言者かどうか民衆は疑うので「さらに別の未来を当ててみせろ」と問い詰める事になる。ところが言い当てたという事実だけをその人物の死後に文書として残した場合は、預言を肯定する要件は満たしたまま、預言を否定する材料が無くなってしまう。
 前述した呪術の話から考察するなら、呪者は自らが死んでいては利益を得られなくなるので死後に発揮される呪力の効果を狙って預言を残す事は無駄に思われるが、後に残る親族(記述者)ならその本を使って周囲に影響力を持つ事が出来る。「皆が知っているあの大事件を、それよりずっと前に預言して助けた人物が私の先祖にいる。彼は神から助言の恩恵を受けたのだし、子孫の私にも神により祝福されたその血が流れているのだ」と誇る事が出来る訳だ。このため多数の親族に預言をさせて何か当たるまで待つのでも良いし、ここまで来ると預言が当たった事実さえ捏造であっても構わない。この場合の呪者は預言者よりも記述者であり、すなわち文書を使うと「預言者は作れる」のだ。
 こうなると預言の信憑性は被術者が信じるか如何に委ねられる。あの有名な文句「あなたは神を信じますか」はこうして生まれる。これに対してはっきり「信じません」と言える者が現れたら宗教家は敵意を確認して別の呪術を用意するなり暴力での対処に切り替えられるし、そこに「神はいるかもしれない」とか「分かりません」と答える弱者を見つけたらさらに「神を信じる者は救われる」と重ねる事によって簡単に呪いを掛ける事が出来る。人生とは常に不安を抱えるものなので、その精神的苦痛に疲れた者は誰かに助けて欲しくなり、そうして救いを祈ってしまう者の心の中でイスラエル民族は預言者を輩出した神秘の民へと格上げされる。ちなみにこれを拒否したければ「神を信じると救われるし、神以外のものを信じても救われる」と答えればその呪いを解く事が出来る。「神を信じても私は救われない」と返すのは駄目だ。(これについては第三回にて説明する)
 各社会において呪術者が大切にされるのは超常的な力を持つ彼らに自分では解決出来ない苦境を救って欲しいと願ってしまう民衆の脆弱性がある訳だし、そこを突く呪術をイスラエル民族は文書を用いて完成させた。この本を広める事が出来れば、救済の預言を信じたい者が大勢現れる場合(特に社会的苦悩が蔓延する時勢)に信者が増えて預言者の一族は民衆から重要な地位を与えられる。そうして一族が繁栄していけば彼らが神の祝福を受けている民族だという聖書の信憑性は益々高まってゆく。ただし現在生きている子孫が預言者を自称してしまうと、新しい預言を求められて外してしまった場合に民衆から失望と怒りを受けて信仰が揺らいでしまうので、生きている者は預言者になる事は出来ない。
 まとめると預言とは未来予想を使って他者の信頼を得る呪術の一種である。未来は誰も知らないものなので完璧に予想してみせる事は不可能だが、文書のトリックを使えばそれを達成したという事実は作れるのだ。これを使って預言者の一族は社会的に優位を得られる。だから聖書が善か悪かは差し置いて他者に呪いを掛ける書であると言える訳だ。そして同時に神の力を証明するための聖なる書でもある。それなのに神聖では無い。神聖では無い聖なる呪いの書だ。これを今では宗教家が奪い合って利用している。
 
「これが聖書だ」
 さて聖書の概要を説明した。イスラエル、キリスト教徒、イスラムの三者が聖書のせいで今や存在しない預言者の呪いに苛まれて決着の無い争いを繰り返している事と、それが彼らの存在に関わる問題へと発展している事をもう一度確認して欲しい。彼らはそれぞれの預言者、モーセ、イエス、ムハンマド、を今も信じているので、もっとはっきりと言ってしまえばこの三者による聖書を巡る呪い合戦に全世界が巻き込まれている。日本人には本当は関係の無い事だが、先の世界大戦や今の中東情勢を見ればその迷惑な影響を他人事だと言っていられない。解決されない聖書の言葉は化け物みたいに膨れ上がって日本にも侵入して来ているのだ。
 信仰は不安の中に生まれる。私たちは信仰が不安を解消するように教わるけれども、もし信仰が不安を生んでいたら、例えば宗教が戦争を生んでいたら、むしろ不安は増大し続けて、それに乗じた信仰は膨れ上がるのではないだろうか。つまり逆から考えれば、宗教が信者を獲得したいなら争いや自虐を起こせば起こす程にそれを達成出来るのではないか。本当は世界が不安で満ちる事が最高に宗教的な世界なのではないか。
 三者は同じ神を奪い合って争いを始めた。争いは不安を生み、不安により信仰は膨らみ、自分の信仰を守るために戦いは激化してゆく。例えば自爆テロはどうだろうか。自国民を自爆に巻き込む姿は一見すると目標を見誤った捨て身の抵抗に見えるが、こう考えると、確実に不安を煽っている狙いを理解出来るだろう。不安に駆られた民衆は敵対していた宗教へと逃げる。しかしこの場合は、イスラム圏から西洋へ、逃げた先も同じ神を信じているのだ。西洋人は自分の宗教(キリスト教)の教えで避難民を救ってみせようとするが、それはイスラムの民族を守る事にもなってしまう。これを恐れて難民を異教徒だからと排除すれば、不安を救うはずだった自分の宗教の教えを否定する事になって、イスラムと戦える論理を失ってしまう。しかし敵対宗教の難民を受け入れれば自国内で問題が必ず起こる。不安は増える一方だ。
 もし本当に唯一神が存在するなら、彼は信者が増え続けるこの状況を喜んで笑いが止まらないだろう。何の変哲も無い民族史料から生まれた彼は、決して否定されない過去の預言者を三人使う事で人類のほとんどを支配する唯一絶対の神にまで成長した。争いも不安も、神も不滅だ。誰もこの問題を解けない。もしこれに対抗して孤独の不安に耐えながら宗教を拒絶し続ける優しい者がいたなら、神は無数の宗教家にその苦悩を煽らせながら、そっと近づいて微笑の中に勧めるだろう。

ここにあなたを救う聖書がある、と。




第二回 『創世記』
第三回 預言者モーセの四書
第四回 預言者イエス『マタイによる福音書』


この記事へのコメント

  • a

    とても面白いです
    更新頑張ってください
    2018年07月26日
  • 批評界の管理人

    ありがとうございます。

    よくドラマの作家が原稿ぐしゃぐしゃにまるめて
    後ろにぽーいっとするあの状態に今います。

    だから応援ほんと嬉しいです。
    次の記事までもう少しお時間くださいませ。
    2018年07月27日