映画「君の名は。」

四(意味レベル):運命の出会いについて確か。
1から9(感情ステップ):不快な現代生活、他者への好奇心と旅立ち、幸福論、会いたいけれど会えない(4強)、孤独の未来(5強)、告白(6強)、死滅の恐怖、帰宅、それは美しかった。
 
2016年。
監督:新海 誠。制作:コミックス・ウェーブ・フィルム、東宝、KADOKAWA、他。音楽:RADWIMPS。
声演:神木 隆之介(主人公少年、瀧)、上白石 萌音(主人公少女、三葉)、市原 悦子(おばあちゃん)、他十数名。
アニメーション映画、107分。
構成スタイル:サスペンスドラマ。
主張:慰安(娯楽を含む)。
ジャンルと要素:私小説(2010年代日本)、妄想(空想+随想)、怪奇(ホラー+ミステリー)、道徳(倫理+社会)、コメディ(精神入れ替わり)、人情(家族)、青春(10代)、冒険(成長)、官能(異性の体)、他。
 

「運命の人と出会う」
 この作品は2010年頃に表面化した日本アニメの世界的な盛り上がりを追い風に、それまでアニメーションに注目していなかった多くの人たちが劇場へ足を運ぶようになって、映画興行の日本記録を独走していた宮崎駿監督アニメ作品『千と千尋の神隠し』に肉薄する盛況を博すことになった。日本人視聴者がアニメに求めるテーマは同じなのか、この作品もまた悩める日本人の現代生活において、主人公の精神的成長を描く。
 飛騨の山村に生まれた主人公の一人である女子高校生「三葉(みつは)」は、神社の家に生まれた巫女として田舎の伝統を守る古臭い暮らしを嫌い、東京の都会染みたキラびやかな生活に憧れている。ある朝に三葉は目覚めるともう一人の主人公である東京住まいの男子高校生「瀧(たき)」になっていた。これをまだ夢の中の妄想だと思った三葉は瀧のやっていたアルバイトやカフェ巡りをして憧れの都会生活を満喫するが、実は夢ではなく、その裏では瀧が三葉になって田舎生活を楽しんでいた。自分の人生は保守的な二人なのに、相手の体に移るとポジティブに大胆になれることで、二人は自信を育んでいく。そして二人の精神が元の体に戻る時に、それぞれが書き残しておいた日記から互いが入れ替わっている事実を知る。ところが二人は現実に会おうとしてもなかなか上手く行かない。二人の生活は三年ずれていて、三葉が三年前の彗星落下事件により彼女の村ごと死滅していたことを、瀧は知る。瀧が乗り移っていた三葉は三年前の三葉だったのだ。瀧は精神の入れ替わりを使って三葉が生き残れるように思いを伝える。
 この物語の演出に使われた、二者の精神の入れ替わりや、時間のずれと、すれ違い、それを応用して未来の結果を変化させる、などの表現は近年の日本で特にアニメ作品の間で流行している大きな特徴であり、新海監督も好んで使う手法だ。これはアニメ愛好者である近年の若者たちを中心に、他者の人生への興味と、自分たちのコミュニケーション不全の実感と、そして漠然とした未来への不安があるのだ、と作家たちが見ていることに他ならない。どの作品も共通した答えは主人公が「問題を知って」「その原因を解消する」ことになる。例えば恋愛が上手く行かずに悩んでいる現実の若者に対して、こうすれば上手く行くとストレートに説教する普遍的な作品と違って、解決法は問題の原因を探ることだと説教するのが今の日本の若者たちへのアドバイスとして主流だということだ。「する」以前に「知る」である。詳しく知るために問題を分解して考える必要から、相手の視点に入れ替わって見たり、時間をずらして見たりと、多角的なヒントで答えへの導線を視聴者に探らせる。
 新海監督は日本の現代の若者の悩みに対して、その問題を分解して見せて、他者に望む幸福はそれぞれあるのに互いが噛み合わないせいで自分を幸福に出来ないのだと答えを出す。三葉は瀧の人生を幸福に導ける者だが二人は出会うことが出来ないし、瀧は田舎で死にゆく三葉を救える者だが、やはり二人は出会うことが出来ない。どうして出会えないかと言えば、互いの生活がずれているからだ。視聴者は田舎と都会が対比された演出を見て互いに「ないものねだり」をしているだけなのではないかと思うだろうが、作品中に説明される通り「誰そ彼(黄昏)」時に出会う男女とは、元より自分にないものをねだる関係だ。その足りない部分を合わせることで男女は幸せになれる。本作の結末(と冒頭)では二人を東京という狭い世界に置き直すことで、本当は出会っているのに精神的な実感としてなかなか出会えない状況を表して、今の若者たちが抱える現実の問題へと問いかける。
 なぜ現代の日本の若者たちは運命の人と出会えないのか。それは各々に足りない必要なものを求め合うべき二人が、それを知らない。互いの生活が切り離されて、すれ違っていて、知る機会さえない。理想の相手のことばかり考えているのに、本当は自分に足りないものが何なのか、自分とはどういう人間なのか、知らないから運命の相手を見つけられない。それで自信がないから悩んでいる。劇中「おまえは誰だ?」の問いかけにそれが込められ、最後に瀧はすれ違っていた三葉に告白することでその答えを見つける。
 
「生き残りをかけた感覚」
 さて、自分と結ばれるべき運命の人という者がこの世界にいるはずなら、どうしてそれを知る能力が私たちには備わっていないのだろう。それほど大切な一対が存在するのなら、出会った瞬間にそれと分かる感覚があって然るべきではないか。俗に言われる「ビビッときた」というやつである。特に問題なのは感覚がないことよりも、しょっちゅうビビッとくる人がいて錯覚と言えるほど精度が悪く、運命の人を何度も間違えてしまうことがあるのだ。そして失敗する度に人は恋愛に臆病になる。自信をなくしてしまう。
 新海監督の世代はこの答えをセンチメンタルに求める癖がある。これも俗に言い直すなら「キュンときた」というやつである。ビビッときた興味に触れてみると自分がキュンと反応してその恋愛を確かに感じる。その触れ合う瞬間は長く待ち望んでいた達成の「刹那」であることから、心は「切なく」思う。その出会いを「大切」に思えるようになる。このキュンと切ない感覚があることこそ恋愛が確かに出来たという証明なのだとこの世代は求める。例えば映画では最後に男女が抱きしめ合って恋愛達成の音楽がジャーンと鳴ったり、最後に相手が死んで恋愛消失の音楽がジャーンと鳴ったり、本作では声をかけ合えなかった二人が勇気を出して見つめ合い、涙を流しながら慰安の流行歌がジャーンと鳴る。大事なことは音楽がジャーンのシーンにあって、これがセンチメンタリズムになる。
 ところがその感覚(センチメンタル)が間違うことがよくあるわけで、実は残念ながら、恋愛というものは運命の人とじゃなくても出来るのだ。ビビッもキュンも自分の本当に必要な運命のものかどうか分からない。砂糖を舐めたら甘いと感じるくらい、誰でも誰とでも恋愛に触れたら必ずそれは感じられるものなのだ。だからこれで唯一無二の運命を表現するためには、これ以上ないくらいドラマチックで最高のキュンキュンを演出しようとする。これに感動して涙を流している純粋な若者を責めたくはないけれど、正直なところを言えば、彗星が落ちなければ恋愛の一つも出来ないのかと冷めて見てしまった人だって少なくないだろう。
 では、運命の人を見つけることは不可能なのか。これを「出来る」と訴えるのが本作である。
 劇中の彗星(流れ星)が二つに別れるのは二つの命運を暗示している。すなわち平和なまま綺麗に流れてしまう素通りの運命と、大きな波乱によって愛情をかき立てられる別の運命の有り方だ。その直前に夕暮れの間だけ二人の精神が出会えるシーンでは、黄昏時を「片割れ時」だと言い直し、二人の手が空を切る瞬間に沈みゆく太陽の描写が強調して描かれる。つまり太陽(日本)が沈んでゆく未来を目前にして危機を共有する二人は生き残るために必要なものを知るからそれで出会うことが出来る、というわけだ。ここで言われる未来とは墜落と死滅であり、それが起こってしまう夜の未来でも二人は出会えないし、平和な昼時にも二人は出会えない。新海監督の言う、運命の男女が出会いを知る感覚とはつまり、沈む日(滅亡)の「危機感」となる。
 自分にとって必要なものを持った相手と、互いに助け合いたいと思うことで運命の人と出会える。二人が共通の危機意識を持っているからだ。これにより墜落して死滅するはずだった日本文化を背負う巫女の三葉の運命と対になって、大切な人に出会えないまま終わってしまう都会生活の瀧の運命も変わる。二人で共に生き残る。だから感動が起こる。彗星が落ちなければ恋愛も出来ない、というよりもむしろ、彗星が落ちてこそ運命的な恋愛が出来るのではないかと本作は言い切ってしまうのだ。
 結構これは恐ろしい思想だろう。新海監督が若者たちの腹の底に見ているものは、この社会が墜落と死滅する危機感であり、それにより再生するだろうという未来だ。裏を返せば、現代日本が平和なまま続くのであれば男女は恋愛が出来ないし、その社会が崩壊する運命が起こる時に日本の若者は必死に恋愛を初めると見ている。そして今の若者たちはその瞬間を求めている。劇中の瀧は「大丈夫。まだきっと間に合う」と言って三葉の焦りを慰安するが、これはつまり、ちゃんと日本は滅亡に向かっているという意味でもある。彗星が落ちて山村が消滅する瞬間を新海監督は「ひたすらに美しい眺め」と賛美する。
 
「彗星が落ちてこない現実」
 もう一つ批評として解説しておかなければならない。それは本作が興行的に大ヒットした事実と、これがアニメーションの嘘であるということなのだ。
 本文の冒頭でも書いたように、日本のアニメ作品は今や日本を代表する産業となったし、その中身には日本人の精神性が求められている。日本の神々が登場したり、本作では神楽が奉納される描写などがあり、いかにも日本的表現に見える。しかし日本人の誰もが分かっている通り現実にそんなものは存在しないのである。これは日本人の精神性を絵に表現したものだと解釈されるものだが、つまりここで言いたいのは、そんな精神性など本当に存在するのだろうかという問題だ。ここで新海監督は嘘をついた。
 というのも、三葉という主人公は巫女として日本文化を背負っているような田舎の象徴として描かれているのに、彼女が瀧と出会うのは東京でのことなのだ。日本の神々は土地神なので、彗星の墜落から住民が逃げられたとしても、土地が消滅したら日本文化が死んでしまうことに変わりはない。最後に三葉は田舎を捨てた東京暮らしをしているのだから、つまりこの物語は日本の文化を見失った東京人と東京人の出会いなのであり、その危機感も運命の出会いも東京人同士の慰め合いになる。田舎にそんな娘はいないし、実はそんな信仰もない。口噛み酒を奉納するという土着信仰のモデルがどこかにあったとしても、そんなものはマイナーな風俗の一つであり、日本文化を代表出来るものでもない。田舎に精神を求めるようなものは大抵が東京人の妄想の産物だ。
 だからはっきり言ってしまうと、東京人の人生の物足りなさを埋めてくれる都合の良い美少女が田舎から会いにくるという運命も存在しない。大体にして本作の舞台として設定されている岐阜県を見下している節が見えるが、三葉の憧れるカフェ巡りは岐阜駅あたりに出れば東京まで行かなくても十分に可能である。東京人の憧れる妄想の田舎は実在しないし、東京じゃなければならない特別なものも今ではほとんど存在しない。東京人の孤独に対する危機感は田舎民に共有されていないのだ。
 つまり新海監督のついた嘘とは彗星が田舎に墜落するという表現である。本当は東京に墜落する彗星であり、その場合の三葉には瀧を助ける理由がない。三葉の東京に求めるものはせいぜい「イケメン男子」であるので、現実の東京に住んでいながらイケメンではない男子には存在意義さえない扱いだ。しかしこの映画のターゲットは恋愛相手が見つからずに不安を抱いているような、イケメンから少し離れてしまった層なのだから、「まだきっと間に合う」と言うのは慰安サービスの嘘であり、本当は手遅れかもしれない。この作品のヒットは残念ながらアニメの虚構の中にしか自分の日本精神を求められない東京人の自信のなさの表れと言えるだろう。その侘しさも危機感も都会で孤独になっている人の不安であり、それを救ってくれる日本精神など存在しない。
 どうして東京人はこんなに自信をなくしてしまったのか。東京には美少女巫女だってイケメン男子高校生だってクリームたっぷりパンケーキだって日本中のあらゆるものが集まっているのに、なぜか不安に苛まれてアニメに慰めてもらう若者が増えている。しかしアニメは東京じゃなくても見れるのだ。もう東京人は自分たちが何のために東京へ上ったのか分からなくなっているのではないか。せっかく故郷を裏切って上京してもこれでは全く成長していない。
 本当に知らなければならないのは、アニメの嘘に精神性などを求めてしまう自分の心の弱さだろう。どうせ自分の人生はもう駄目だと思っていて慰めの嘘を買ってしまう。さらに若い人は嘘を見抜けない。キュンとするだけでこれを良いものだと錯覚してしまう。その自信のなさは、アニメや異性に埋めてもらおうと待っていないで、自分自身で克服してしまえば恋愛なんてさほど難しくなく出来るのに。

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