映画「おおかみこどもの雨と雪」

ookamikodomo.jpg二下(意味レベル):起結が繋がっていない。内容はファンタジーというより虚偽に近い。 
2から6(感情ステップ):好奇心から、愛情を育み、無理な生活から、孤独になり、自然の結末に任せる。

 
2012年劇場公開。2017年3月日本テレビ『金曜ロードShow!』にて地上波放送。
原作・監督:細田守。キャラクターデザイン:貞本義行。音楽:高木正勝。
制作:日本テレビ放送網、スタジオ地図、マッドハウス、角川書店、東宝、電通、他。
アニメーション映画、118分。
構成スタイル:ドラマ調、日記、散文。
主張:慰安。
ジャンルと要素:私小説(生活描写で社会を描く)、空想(獣人間の生活)、怪奇(ホラー+ミステリー)、道徳(生活)、コメディ(愛敬のある獣)、人情(人助け)、青春(育児)、冒険(田舎暮らし)、官能(性交)、など。
 
声の出演:
はな(主人公):宮崎あおい。あめ(息子):西井幸人・加部亜門(幼少期)。ゆき(娘):大野百花・黒木華(くろきはる、成長後)。
おおかみおとこ(主人公の彼):大沢たかお。韮崎のじいさん:菅原文太。草平の母:林原めぐみ。他20数名。
 
あらすじ。
 女子大生の主人公「はな」は同じ講義をモグリで受けていた「おおかみおとこ」に一目惚れする。「おおかみおとこ」は普段は人間の姿をしているために「はな」は狼と気づかずに彼と恋愛にのめり込み、それを打ち明けられても気にすることなく二人は同棲を始めてしまう。成り行きで出来てしまった娘と息子をアパートで自力出産して育てていたある日「おおかみおとこ」が事故死する。途方に暮れた「はな」は子育てに注力する決心をして、獣の飼育に向かない都会のアパートから農村の廃屋へ移り住む。二人の子供は自由に狼と人間に変身することが出来るが、小学生まで成長すると人間としての生活に悩み始める。息子の「あめ」は狼に成ることを選んで母を捨て、山に走り去って遠吠えする。

 
批評「おおかみこども」
 スタジオジブリから見放されたアニメーター細田守の監督作品。『時をかける少女』の好評から『サマーウォーズ』のヒットを経た後、日本テレビの映画番組『金曜ロードショー』でお茶の間アニメ枠の王者であるジブリ宮崎駿監督の椅子を狙った勝負作となる。
 そのテーマは一般に受けの良い「家族の成立」であるが、前作『サマーウォーズ』では何の悩みも無い大所帯を描いて娯楽に徹したのに対して、今作は悩みだらけの歪んだ家族が描かれる。ここに大きな不調和が生まれてしまい、作品の悩みを娯楽制作で培った明るい表現で描いて、作品の内容が薄く成ってしまった。娯楽枠でも暗いものを描いて昇華させることで感動に結び付ける宮崎監督の力量には遠く及ばない結果と言えるだろう。
 察するに細田監督は、苦しい生活を頑張って明るく楽しく生きようとする姿に、そのギャップから感動を引き起こそうと狙っているようだ。ところが、明るく楽しく生きようとする姿は描けても、苦しい生活を頑張って暮らす姿を描けないために、ただ遊んでいるかのように見えてしまう。なぜ苦しみを描けないかと言えば、先にも挙げた通り娯楽枠に求められる「一般に受けの良い絵」を作るために、暗い表現の扱いが難しかったことが理由の一つだろう。宮崎監督なら「ここまで苦しめても観客は耐えられる」という絶妙な匙加減を心得ているし、合間に笑いのシーンを挟み込んで観客のストレスを解消する小技を使い主題の苦味を上手に料理出来る。しかし細田監督はそういった制作の勘を持ち合わせていないから軽くて楽なものしか描けない。
 この差からもっと重大な第二の理由が見えてくる。それは宮崎監督には作品を料理することに躊躇が無いのに、細田監督には躊躇が在るということだ。宮崎作品では苦労が素材としてフィクションの中に出て来る。つまり彼の作品の苦労は主題ではなくて要素であり味付けなのだ。ところが細田監督の苦労は主題であり、どうやら真面目に描きたいらしい。宮崎作品の方が苦労を描けているように見えて、実は結構適当に描いている分、作品の文脈にしてみれば娯楽の収まりが良い。対して真面目に向き合ってしまう細田監督は、それを娯楽のために隠そうと精一杯やってしまい、減り張りが全く活きて来ない。
 では、本気になって真面目に描こうとしながら隠したいという主題とは何か。つまり「おおかみこども」とは何か。これが残念ながら、やはりと言うべきか在日朝鮮人ということになるだろう。人間社会に紛れ込んだ異質の存在で、それなのに人間と子供を作れてしまい、実生活に苦労する。細田監督にとってはこれが真面目な問題であり、だから適当に料理をする訳にはいかないのに、娯楽枠に合わせるため生々しい苦しみでは描けない。宮崎監督なら躊躇なくカットしたり笑い飛ばしてしまう部分を大切にするから苦労の描写がダラダラと続いてしまうし、それを娯楽として描くために明るい絵柄を乱用してしまう。たかが在日問題じゃないか作品の味付け程度の要素だと、細田監督には扱えないのだ。
 
「在日の文脈」
 本作も然り、在日朝鮮人の作品に多用される文脈がある。それは「在りえない日本」で「道徳(日本社会の倫理)」に苦労した気持ちを「視聴者に同情して欲しい」という流れだ。
 まず在りえない日本だが、本作においては主人公の相手である「おおかみおとこ」の死がおかしい。なんと彼の死体がゴミ収集車で運ばれて行ってしまう。日本では犬はゴミではない。ペットの死骸もゴミ焼却炉で焼かれることにはなるが、それでも勝手に清掃の職員が運ぼうとしたなら、主人公は収集車に追いついているので「うちの犬なんです」と言えば置いて行ってもらえるだろう。しかも絶滅種のニホンオオカミが都会の川で不審に死んでいたら研究や捜査の対象として大きなニュースになるはずだ。これは冷たい社会を過剰演出しようとして出来た在りえない描写であり、行政から迫害された事を比喩した在日の被害妄想の類だと言える。
 主人公が自分の子供の病気を「おおかみにんげん」だからという理由で普通の病院に運ぶか動物病院に運ぶか悩むシーンも笑えるものではない。もちろん普通の病院に行くべきだが、日本ならどこへ連れて行っても何かしら助けようとしてくれるものだろう。このシーンは迷ってしまって病院に連れて行けなかったのではなく、我が子が狼であることを隠したいから連れて行かなかったのだ。日本の社会が主人公一家に対応出来ていないという印象を植え付けるが、真に悪いのは母親である主人公だ。
 この主人公「はな」は道徳的にも良くない。特に子供への責任が無さ過ぎる。好きな男が出来たら簡単に子供を作ってしまうのも良くないし、ちゃんと結婚もせずに産むのも投げやりなら育てるのも投げやりで、最後には子供を山に帰して別れるという、酷い倫理観だ。これをファンタジーで護摩化して「我が子が狼だから苦労した」というお話に持って行かれるが、親として責任の欠如が問題を起こしているのではないか。子供はペットではない。勝手に狼に成ろうとする息子を躾けもせずに苦労だと謳うのは間違っている。
 家族の形成も変だ。主人公「はな」が都会の生活に苦戦した時に頼るべき自分の両親は何処にいるのか。全く出て来ない。家族の形成がテーマの作品なのに、主人公は親との関係を求めずに歪な家族を形成しようと無理をするから、こんな変な物語が出来上がる。細田監督の頭の中では在日朝鮮人と結婚が許されず駆け落ちをしたという設定か何かがあるのかもしれないが、その歪みを正常な状態に戻すのが家族の形成であり、歪んだままではいつまでも達成されない。
 こういったものを隠そうとして「おおかみ」が使われる訳だが、この作品はそれに同情しろと言う。在日朝鮮人の気持ちなら分かるかもしれないが、絵に描いた狼の気持ちなんか分かるか。洗いざらい真実を描けば良いし、それが娯楽枠に向いていないと思うのならばやらなければ良い。それでも娯楽で押し通して大衆に見せ付けて視聴者の同情のみを狙うから在日の作品はいつも駄目なのだ。
 
「感動しろ作品」
 変な狼と自分を重ねて社会問題として捉えるという不思議な思考をするのは難しい。しかし監督はそれを押し通したい。そこで、嬉しい悲しい苦しい楽しいといった分かり易い感情を並べて「視聴者よ、ここで笑え、ここで泣け、最後はこれで感動して傑作だと褒めろ」とはっきり指示するような作品は出来上がる。視聴者を悲しませたいと思ったら画面の主役を泣かせ、楽しませたければ笑って見せて、感情に訴えるだけで意味の無い演出がされる。こういう無知な誘導は作品にとって致命的だ。画面の中で泣き笑う顔を描いておけば後は嘘でも良いと錯覚し始めて齟齬や矛盾が放置される。
 主人公一家の貧困が描かれていたはずなのに、高級な屋根瓦を修復出来たり、ワンピースを自作したり、買った方が安い物まで何でも自作させてしまう。ジャガイモなんて切って埋めておけば何処でも生えてくるものを偉そうに指導する口だけ悪い好々爺やら、田舎の農家は食べ物をくれるという単純な乞食根性やら、それでいて自家用車を用意出来たり、二千円しか入っていない財布をちらつかせながら、いつの間にか数年を生きられる程の貯金があると言い出したり、見せ掛けだけの苦労話は滅茶苦茶だ。
 つまり苦労は迫害だと、迫害から貧乏だと、貧乏なら田舎だと、田舎は農業だと、農業は大変だと、けれども笑顔を作りたいから、厳しい口調の好々爺が適任だと、結局それに甘えて楽ちんな田舎生活を始める訳だが、苦労が無くなってしまうと映画の中身が無くなってしまうから、だらだらと苦労の振りをするだけで物語は簡単に進んで行く。現実ネタが尽きたら子供を狼に変身させて困った振りをする。同情を誘いたいだけなので「おおかみこども」は視聴者に媚びた愛敬を振り撒いて、結局は狼でも人間でもないアニメの小道具として使われるだけになって、人間の言葉を喋れる癖に最後はアオーンと狼の鳴き真似をして見せる。
 だから、狼が人間社会で生きていけないという大前提が全く伝わってこない。むしろ人間のお陰で良い暮らしを出来ているように見える。自然の狼にこれほど餌付けをしたら山に帰らなくなるぞ。父親の「おおかみおとこ」はそれで人間界に出て来ている訳だから「おおかみこども」が山に帰るのは作品のテーマとしても大きく矛盾する。大体この父親は引越し業務で金を稼いでスーパーで買い物を出来るのにドブ川でキジを獲り損ねて死ぬというのも間抜けだ。日本の国鳥を殺そうとして失敗したという暗喩をしたかっただけではないのか。
 こうして短絡的になる作品の所々に宮崎監督の表現を朴ったものを散りばめる。手法を盗めば自分も宮崎駿に勝てると考えている時点で浅はかだ。アニメなら何でも喜んで見る視聴者も愚かだが、こんな作品を出して通用すると思っている制作者らも愚かだ。そもそもこの映画を観て同情を出来るような人なら現実に「おおかみこども」が存在しても受け容れてしまうだろう。むしろ手厚く可愛がるのではないか。そうしてまた在日問題は続いてしまう。
 田舎に住めば分かることだが、都会より田舎の方が人間関係は難しい。長く住むほど問題だらけの田舎社会にまとわりつかれて自由に動けなくなる。だから田舎の若者たちは金さえ稼げば自由が保障される都会の気楽さに憧れるのだ。心を病むのは都会だけであり、田舎の自然がそれを癒してくれると思うのは大きな間違いである。都会と田舎は互いに無い物ねだりをしているだけで、住めば何処でも悩みが生まれる。楽しいのは遊んでいるうちだけだ。この映画が目指すような自然に回帰する生き方なんていうのはさらに難しい。むしろ田舎は自然と戦う最前線であるし、狼にだって社会はある。山は人間の自由には成らない。
 結局この手の作品は視聴者を印象で騙そうとするだけの虚偽である。細田監督が在日朝鮮人なのか出資者の要望がそうだったのか分からないが、どちらにしろそちらの画策であり、嘘の苦労を無理矢理に慰労しようとするから変な作品が出来上がる。媚を売るペット子供が同情を買うのが日本だなんて言われては情けない。

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