トルーマン・カポーティ 「クリスマスの思い出」

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四(意味レベル):クリスマスを伝える小説。
1から5(感情ステップ):クリスマスの喜び、好きな事を、幸せのために。老婆は苦役から解放されて、天国を知る。

 
1956年雑誌『Mademoiselle』に発表、1990年日本語訳本書。
原題:A Christmas Memory.
著者:Truman Capote(トルーマン・カポーティ)、編集:Street & Smith Publications, Random House、翻訳:村上春樹、日本語版編集:文藝春秋、銅版画:山本容子。
小説、36字×12行×75頁(銅版画挿絵20、白13、題名1、謝辞1含む)+訳者解説3頁。
構成スタイル:ドラマ調、小噺、及び散文。
主張:記録と慰安。
ジャンルと要素:私小説(生活描写から時代を描く)、随想(老婆と過ごしたクリスマスについて)、社会(1930年代アメリカ)、宗教(プロテスタント)、人情(友情)、青春(幼少期)、冒険(主人公の成長)、ほか。 


「メリークリスマス」
 クリスマスとはなんだろう。イエス・キリストの誕生日? だからキリスト教徒の宗教行事? 子供たちがケーキを食べられる日だろうか? それよりもチキン? サンタクロースからプレゼント? 幸福を確かめる日? 愛を伝え合う日? 大人たちは高級ホテルでセックスをする? シャンパンを空けて? イルミネーションを眺めて? それとも遠く離れた家族と集まって一緒に過ごす? 温かく過ごす日? 今年は連休だからどうやって過ごそうかなと、あの父親面が言う。例年は仕事が忙しいから淋しくならず済んでいたのにと、こちらの独身は言う。友人同士で集まってワイワイやろうと若い人たちの声も聞えて。それぞれ違うクリスマス。それでもみんなクリスマス。
 トルーマン・カポーティの『クリスマスの思い出』は1950年代(小説の設定は30年代)のアメリカの変化に取り残される一人の老婆からバディー(相棒の意)と呼ばれる少年がクリスマスを学ぶ物語である。
 彼女は遠縁の親戚としてバディーの家に身を寄せている。若い頃に長患いをした彼女は社会から取り残されて子供のまま年を取ってしまい、恐らくは唯一の友人であるバディーと、遊んで暮らしている。とは言っても彼女は彼女で社会との関わりをちゃんと求めていて、ジャムを作ったり花を摘んだりした小さな売り上げを貯めて、毎週バディーが観に行く映画のために十セントをくれる。そして十一月になると全ての所持金をつぎ込んでクリスマスケーキを三十個も作るのだ。送る相手は彼女が良いと思う人。ローズヴェルト大統領、町へ講演に来た牧師夫妻、毎朝手を振ってくれるバスの運転手など。バディーはそれを手伝いながら彼女の人生の喜びと悲しみを分かち合う。 

「移りゆく社会」
 構成は、死にゆく老人が子供に優しさと人生を教えてくれるという有り触れた形で、教育者の老婆が普通の人とは少し変わっているのも大体雛形通りである。ここで大抵の場合は老人に奇行をさせて、それに巻き込まれる子供が行為よりも大事な普遍の愛情をそこに見つけ出すものだが、この小説では貧乏な老婆がケーキを焼くだけで大した奇行が無いので、特別な喜びと悲しみを読解するのは少し難しい。つまり、クリスマスの日に特別な事件は起こらない。
 読書のヒントとなるものは小説のあちらこちらに描かれているアメリカの社会情勢の示唆だろう。「そして僕らは思い出すのだ、すべての鳥たちが南に渡ってしまったわけではないのだということを(P.48)」という一文は、渡り鳥を自由の暗喩として、南北戦争に至るアメリカ社会の亀裂の意味であろうし、「(クリスマス)ツリーは子供の背丈の倍はなくちゃいけないよ(中略)子供はてっぺんの星を取っちゃうからね(P.51)」というのはキリスト教社会に対する共産活動の比喩だろう。老婆はバプティスト派のキリスト教を信仰しながら、最終的には世界のあらゆるものに神の存在を見つける。この考え方からバディーの名「BUDDY」に仏教を見出すのは強引かもしれないが、あらゆる者の自由な融合を夢見たアメリカ成立の理念への敬意がこの小説を支えているのは間違いない。
 クリスマスケーキが出来て、インディアンから買った密売のウィスキーの余りを飲んでしまった二人が「さあ繰り出そうぜ、くろんぼ街のご機嫌ダンス・パーティに」と踊り出すのは奴隷解放を願う北部の考え方だと言える。その後に老婆が歌い出す「お家に帰る道を教えて」は、アメリカ移民たちがこの国に自由を求めて旅立って来た初心を思い出させる。この自由奔放を家族から叱られて懺悔させられる姿が当時の支配的アメリカの様子であり、泣いた老婆は「私が泣くのは大人になりすぎたからだよ。年とってもちっともまともになれないからだよ(P.44)」と現社会に自分が迎合出来ない不甲斐なさを嘆いているようも見えるが、後にバディーへ「お前が大きくなっていくのは、あまり嬉しくないね。お前が大きくなっても、私たちはずっと友達でいられるだろうか(P.60-63)」と言う姿から、時代が移り代わり成長していく事に確かな不審を抱いている本心が見られる。すなわち彼女の涙の真意は彼女の求める幸福な世界を大人になっても実現出来ていない後悔なのだ。
 バディーはこの懐古小説を老婆への敬愛と共に書いているのだから、つまりこの物語はアメリカの社会成長を疑っているわけだ。例えば老婆がバディーに与えた愛情は貧乏で無くとも与えられる。しかし結果的には豊かな暮らしを求めた人たちが国を支配的にリードして行き、自由な暮らしは貧乏にならざるを得ないものである。それでも彼女は彼女の求めた自由を実践しながら生き抜いた。彼女の焼いたクリスマスケーキをローズヴェルト大統領らは食べないだろう。それでも彼女はそれを食べて幸せになってくれる事を信じて全ての所持金をつぎ込みケーキを焼き続けるのだ。大自然から二人で切って来た立派なモミノキを安値で買い叩こうとする金持ちと、こればかりは決して売らない老婆の姿勢を描いた場面は、まさにその状況を表していると言えるだろう。
 このクリスマスの思い出を最後に二人は離されてバディーは厳格な寄宿学校へ入れられてしまう。老婆はその後もひとりでケーキを焼き続けるが、老化の進んだ彼女は1880年代に死んだという子供時代の親友とバディーを、だんだん錯誤するようになる。つまりバディーは老婆をそこに残して時代を進んでしまうのだ。そして老婆の訃報を聞く時、楽しかった本当のクリスマスは思い出として悲しく取り残されてしまう。 

「変わらない希望」
 では改めて考えてみる、クリスマスとはなんだろうか。
 小説では迎えたクリスマスの当日に老婆とバディーが互いに贈り合った綺麗な凧を上げに行く。自然の中で幸福を感じる二人の描写の後で、最後に老婆は人生の自戒と悟りを開く。
 「私はこれまでいつもこう思っていたんだよ。神様のお姿を見るには私たちはまず病気になって死ななくちゃならないんだってね。(中略)でもそれは正真正銘のおおまちがいだったんだよ。(中略)最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしていらっしゃったということを。物事のあるがままの姿(P.69-70)」
 彼女の具体的な苦しみは書かれていないので分からない。しかし彼女(さらに言うならバプティスト教徒)は人生が苦役であると考えていた。苦しみ抜いた人生の先に神様が迎えてくれる天国があるのだと信じていた。しかし彼女はクリスマスを謳歌して今まで願ってきた幸福の達成を実感する。すなわち幸福の要素は必ずしも苦役ではなく既にある幸福に気づく事だと悟るのだ。それで、人生は苦役だという呪縛から解放されたその心は二人の凧のように大空へと舞い上がってゆく。
 少年バディーはこの体験からクリスマスが「幸福に気づく日」だと知る。全ての生命を祝う日と言っても良いだろう。作者は最後に「二つの迷い凧が天国に向かって飛んでいく(P.74)」と締め括って彼女の喪失を悲しむが、時代と社会が変わったとしても、それも全ては神そのものであり、本当はいつでも幸福を見出す事が出来る。愛でも良い。温もりでも良い。それは世界に既にあるのだ。
 だから、クリスマスはどのように過ごしても良い。恋人と一夜を過ごしてもチキンを食べてもキリスト教徒じゃなくても良い。全ての過ごし方が正しい。ただし一つだけルールがある。幸せに気づかなくては成らない。目指す目標に達していなくとも、例えば意中の人と過ごせなくとも、その人が生まれてくれた事を喜ぶ。どんな小さな事も幸せに思う。幸せに感じられる事を喜ぶ。クリスマスの主義は実は「メリー」にあるのだ。
 幸福を願う老婆の心はクリスマスによって既に報われている。いつでも、どんな人でも、幸せを見つける事が出来る。それに気づけば幸せに成れる。


祝おう。あなたがいる事を。喜ぼう。希望を思える心がある事を。
それを咎める声を今日だけは忘れて。今夜はそっと温もりに甘えよう。

メリークリスマス


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