トルストイ 「イワンの馬鹿」

torusutoi.jpg三(意味レベル):1800年代東欧ロシアのちょっと解り難い童話。
弱1から6(感情ステップ):戦争の苦労、下流階級を嫌がる風潮、幸福な家族形成、出世を狙う兄、馬鹿なイワンは我が道を行く、他者の欲求を受け流して。

 
1886年発表、1928年日本語訳(興文社、文藝春秋社)及び2005年青空文庫。
原題:Сказка об Иване-дураке и его двух братьях: Семене-воине и Тарасе-брюхане, и немой сестре Маланье, и о старом дьяволе и трех чертенятах.
著者:レフ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой)、日本語訳:菊池寛。
小説、28443字。
構成スタイル:ドラマ調、小噺。
主張:啓発。
ジャンルと要素:空想(ある国家)、社会(戦争と平和)、道徳(労働賛美)、コメディ(イワンと悪魔のかけ引き)、人情(家族)、ゲーム(国防)、暴力(戦争)、ほか。

 
「イワンは馬鹿か」
 このお話は皆から馬鹿にされているイワンという名の人物が、本当は最も社会の理に適った暮らしをしていて、最終的に平和な生活を手に入れるという道徳物語である。
 作者トルストイと、その時代の人々が概ね馬鹿だと思っていたのは労働者の事である。今の人々から見れば冗談に聞えるかもしれないが、かつて世界中は平和な戦争を繰り返す低迷期にあった。兵士が死ぬ戦争を平和と言うのには些か語弊があるかもしれないが、初期の侵略戦争が民衆の財産を奪い奪われるのに対して、末期の侵略戦争は国家の領土を奪い合うだけになり、結局それは支配者の権力を守るために国民へ義務付けられる、民衆には無駄な労働の一つになっていた。
 例えば或る農家が自分の土地を奪われそうになれば必死で戦うだろう。ところが戦争に負けても他国の者が領主に成り代わるくらいで、自分が農家の生活を続けていけるなら、農民にとって大した問題は無いのである。領主は他国の年貢が欲しいから戦争を仕掛けるので、奪った労働者付き領土において労働者が従順である限りは、わざわざ収益を上げてくれる労働者を虐殺する事は無い。つまり労働者は領主が誰であれ年貢さえ納めれば概ねの平和を手に入れる事が出来るのである。略奪が主である初期の戦争と、領主交代が主である末期の戦争とでは、労働者の印象は大きく違っただろう。
 こうなると労働者は戦争を馬鹿らしく思うようになる。労働をして収益を上げる事は誰が領主でも変わらないのに、どうでも良い今の領主を守るために自分の子を兵士として差し出さなければならない面倒が加わるのだ。年貢を納めているのに、さらに労働力の息子の命を奪われて、それで労働者には何の利益も無い。無駄な戦争をして平和を守ってくれない領主の言い付け通りにどうして年貢を納めているのか。労働者は自分たちが馬鹿であると気付いてしまうのだ。
 ここから労働者たちは領主を打倒して無駄な戦争と年貢から解放されようと願い、社会改革を模索し始める。すなわちここで言う「馬鹿でなくなる」というのは、政治と社会形成に関心を持って被支配から脱するという意味である。
 支配者と聞くと悪徳の魔王がウヘヘヘヘと労働者を鞭打つ印象を持つ人も少なくないかもしれないが、本当は采配を支える役割の者であり、権力をどう行使するかはその人に委ねられる。つまりは単なるリーダーの事であり、国民から信頼を得る良い王様だっているのだ。この小説でも最後にイワンは王になっているのだから、支配者のいない労働者だけの世界、いわゆる共産主義、を賛美しているわけでは無い。
 イワンは農業労働に従事する。出来た食物を必要とする者がいれば可能な限り譲ってしまう。王になっても労働を止めない。ただただ労働をして、出来た成果を皆に配る労働者の模範のような、ここでは馬鹿が極まったと言うべきか、そういう人生を送る。支配者のいる社会システムを壊そうとか、政治に参加しようとか、そういう頭を一切使わない。だから皆から馬鹿だと言われるのだが、農家が社会的に力を持つのは農作物を作るからであって、政治に頭を巡らせるのは余計な仕事であると、この小説は言う。
 さらに農業労働から成り上がろうと考えるその狡賢さは悪魔から隙を突かれると平和まで失ってしまう弱点にさえなる。農業で得た金で政治家に転身しても、政治に負ければ生活基盤であった農地まで失いかねない。余計な争いを生み、金勘定ばかりに気を取られて、生産力は下がる。社会改革の余波で自分たちが農業労働から解放された高貴な生活が出来るのではないかと、被支配から脱出する意味を誤解している真に愚かな労働者に対して、作者は馬鹿のイワンを鏡像にして啓蒙しているわけである。
 この後1900年代に社会改革運動が最盛期を迎え、社会主義と共産主義に踊らされた労働者たちは支配を失った暴走国家をコントロールする事が出来なくなり、敵国の領主を討ち取るだけでは終わらない大戦争へと迷走していく事になる。
 この小説が書かれた時の人類はまだ世界大戦を経験していないが、その結末を知っている現在の我々の視点から見て、イワンは果たして馬鹿であるだろうか、と考える事がこの小説の大きな意味になるだろう。
 
「頭が良いということ」
 まず、前提となる「頭の良さ」について再度説明する必要があるかもしれない。
 現在2016年の日本の私たちはこの小説を初め凡そ百年前に流行った異国哲学者の思想書を鵜呑みにし過ぎる傾向がある。例えば労働階級は下だという思想。或る国ではまだ国家主席が一番の金持ちであったりするが、先進国では大統領よりも労働者の方が金持ちである。労働は手足を使って汗や泥で汚れるから上流階級の貴族はやらない、すなわちそれをする労働階級は下であるという物の見方は、かの時代の特徴的なものなのだ。現代日本に貴族などいないし、農家が下流階級だという事も無いのに、今でも労働者は下流だと思い込む人がいる。また世界には貧乏な貴族もいるのだから何が上下を決める指針なのかさえ明確では無い。
 ここから、勝者=金持ち=上流=頭が良い=単純労働をしない、などと考えてしまうのはまるで古い思想に踊らされた愚かな考えだと言える。いつの時代も勝者は頭も手足も使える物を何でも使って民衆を先駆けてきた。頭が良ければそれだけで勝てるのだと考える事こそ馬鹿な発想であろう。そこから逆に、自分は労働者だから下流階級であり、せめて頭から良くなろうと有名な大学を目指すのも結局は愚かな事だと言える。ただし時代によってはそれが有効であったり、または一般の流行としてそうしなければならなかった事はある。
 つまり思想というものは、時と場所とに深く関係する。むしろ本質を言えば、その時と場所に必要とされたからこそ、その思想が起こるのだ。現在の日本の学生が百年前の他国の思想を鵜呑みにするのは、時と場所のズレから、多くの間違いを起こしてしまうだろう。思想書を読んで勉強したつもりになる人も少なくないとは思うが、それは頭の良い行動とは言えないのだ。頭が良いというのは、その時と場所を見極めて、重要な事を理解し合理的に動ける事である。
 であるから思想との付き合い方は難しい。というより不可能だ。どの思想もそれが輝いた時代と場所があるし、今の私たちには理解出来ない。ゆえに、社会主義は悪だとか、共産主義が人類の究極だとか、民主主義は素晴らしいなどと、今の人が過去の思想に優劣を付ける事も本当は出来ないし、それは間違っている。その時その場所の人々の頭に思想は勝手に芽生えるのだ。思想書はその状態を客観的に知るための物だから、読んで初めてその内容に傾倒する事も間違いである。部屋の中で本だけを読んで学べる事など実は無い。
 
「二人の兄と悪魔」
 以上を踏まえて小説を読み解く。無論、イワンは馬鹿ではない。だが、その時代のロシアでは馬鹿にされていた。小説はそんな彼の役割を説いている。ちなみにイワンという名はジョンや太郎といった一般的な名前として平民の象徴に捉えるのが良いだろう。(或いはツルゲーネフに当て付けているかもしれない)
 最初に紹介されるのはイワンの家族構成である。兄二人に、農家で財を成した父親と、聾唖の障害を持つ妹が一人だ。小説はこの家族の崩壊や再生と、国家の成立を同時に描いているので、これが社会主義の原型であると解る。作者の思想では国家形成の基盤は農業だ。なので、この批評では労働者と一括りにしてみたが、小説は農家としての道徳に拘っているかもしれない。板金屋や靴屋などは作者の思想の外の可能性がある。
 長男のシモン(読みは菊池寛訳に準ずる)は軍人として成功し、次男のタラスは商人として成功する。農家を継ぐ事になる三男イワンと対比させているのは明白であるから、シモンを君主制、タラスを資本主義と見る。それぞれを主義として認識するのはもっと後の時代であるかもしれないが、根本的な思想はあったに違いない。イワンの先を行く二人の兄がその時代を表しているとするなら、旧時代の王政下で出世する夢と新時代の資本主義への目覚めは、社会主義よりも民衆から意識されていたと言えるだろう。
 小説はここで悪魔というトリックを用いる。兄のシモンとタラスはこの悪魔にしてやられて功績を潰してしまうのだ。イワンの社会主義に対応しているのは二人の兄であるから、この悪魔たちは社会主義に敵対する国家や主義思想の象徴では無い。悪魔たちは「神様」という言葉を嫌って逃げるので「キリスト教に敵対する者」である。すなわちサタンであろう。神に抗って戦乱をもたらす者である。
 君主制のシモンや資本主義のタラスが悪魔にやられてしまうのに対して社会主義のイワンが悪魔を撃退するのだから、作者は社会主義がより堅実だと訴えたいのだ、と考えるのはこの悪魔の存在から間違いだと言える。正しくは社会主義が「キリスト教社会にとって」より堅実であると言いたいのだ。最初の悪魔は兄シモンを死刑になるまで追い込んで置きながら、わざわざ牢屋から救い出し、イワン一家の元に返して争いの種にしようと企てる。悪魔の狙いは敵を滅亡させる事ではなく、戦乱を起こす事だと言える。
 つまりこの小説のテーマは「1800年代末期のロシアにおけるキリスト教の存続、及び平和な家族形成」という事になる。もっと解り易く言うならば「キリスト教を蝕む悪魔から我らロシア人の平和な暮らしを守る方法」でも良い。この小説を、馬鹿で実直な労働を賛美する小説だと読み取ってしまうなら、その読者は時代と場所のズレを把握出来ていない。または、「共産主義(労働)は社会を平和にする」と勘違いしてしまう人も同様だ。キリスト教を考慮して読まなければ悪魔の説明は付けられない。
 さて、この悪魔の所業は至ってシンプルである。最大の目的はイワン一家全員を一文無しにして家族関係をギスギスさせようというのである。そのために彼ら一人一人の行動の邪魔をして挫折させる。軍人として出世する事を夢見たシモンからは軍隊を取り上げ、商売にのめり込むタラスは借金漬けに追い込む。ところがイワンの農作業を邪魔しようとしても彼は政治など他に出来る事が無いので畑を耕すしかない。最後には悪魔たちもイワンの鋤に飛び付いたりして力比べになりイワンに負けてしまうのだ。イワンは食に困らないから金銭が無くても喧嘩は起こらない。
 負けた悪魔がイワンに恩赦を頼んで、償いに寄こした物がまた兵隊と金である。二人の兄はそれらが潤沢にあれば上手く行くと思って人生をやり直すが、この二つは潤沢にあり過ぎると返ってその力を失くしてしまうもので、やはり二人は失敗する。イワンは王になっても農作業を止めず、執政をしない(小説の研究者からしばしば無政府主義に受け取られるが政府は存在している)ので悪魔に与える隙は無い。最後の悪魔は「頭を使え」と言うが、頭を使わない(政治をしない)からこそ余計な問題に悩まされる事が無いのだ。
 これを読むに、悪魔が人々の心を惑わせると思っている物は権力(武力)と金である。農業に従事するというよりも、権力と金に欲を持たない事が堅実な社会の本質であり、これが作者の守りたいキリスト教の教義という事になるだろう。勿論その基盤が農業である事は小説から明白であるし、賃金労働者では金に負けてしまうかもしれない。
 この二つの要素を用いて戦乱をもたらす者と言えば恐らくロスチャイルド家などのユダヤ富豪の事だろう。彼らはヨーロッパ諸国の王族を潤沢な資金と政治手腕で惑わせて、終わり無き領土戦争をもたらした。それをよく知らずに改革だ革命だと演説する平民上がりもいて社会を混乱させる。作者トルストイはこの状況に苦しむ平民たちが出来る対抗策を、黙々と農業に打ち込んで甘い誘惑に取り合わない事だと、それこそが、戦争を引き起こすユダヤの悪魔に打ち勝つキリストの力だと、訴えたかったのではないだろうか。
 残念な事にこの小説には、幅広い層に読まれる事を想定したためか、単純で幼稚な表現が多い。そのせいで多様な読者が自分の好みに合わせた解釈を出来てしまうから、先に挙げたような労働を正義とする共産主義に誤解されたり、社会主義思想を説いた童話として読まれて、結果的には社会の波乱を助長させてしまう。作者の伝えたい考察には深いものがありそうだが、それを確かに読者まで届かせる執筆の技量が必要であっただろう。戦争と平和について、戦乱をもたらす悪魔を封じ込める具体的な小説を書けていたら、世界大戦を未然に防ぐ一石になれたのかもしれない。
 しかし、それは起こってしまうのだった。


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