樋口一葉 「にごりえ・たけくらべ」

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三と四下(意味レベル):小説二編、詳細は解説にて。
2から7(感情ステップ):恋愛し、幸福になることを、我慢して、孤独な芸妓、運命を覚悟して、社会の犠牲となる。

 
1895年雑誌『文芸倶楽部』と『文学界』に発表、1927年岩波文庫(1999年改版)。
著者:樋口一葉(いちよう。本来は樋の字のしんにょうに点二つ)、文庫版編集:岩波書店、解説:菅聡子(かん さとこ)、カバー画:鏑木清方(かぶらき きよかた)。
小説、39字×14行×105頁(『にごりえ』P.7-45、『たけくらべ』P.49-105、題字3白5目次1)+注16頁+解説18頁。
構成スタイル:ドラマ調(複数人物の視点)、並びに散文(作者感想)。
主張:娯楽。
ジャンルと要素:私小説(個人の生活描写から時代や社会を描く)、随想(明治期吉原について)、社会(明治期の吉原周辺)、道徳(吉原での生活)、人情(芸妓の恋愛)、青春(少女)、ファッション(花魁)、暴力(喧嘩など)、ほか。

 
批評「男と女のかけ引き」
 薄幸の美女作家、樋口一葉の代表作である。彼女の活躍した明治期における日本文学は上流階級の嗜みとして、日本語の学習の意味が強く男性の支配する世界だった。しかし元を辿って日本最古の出版小説といえばご存知『源氏物語』であり、女性文芸の秀逸は日本文学史から疎外されるものではない。一葉は、その優れた才覚をもって古典の文法を習得し、学者をも舌を巻くほどの幅広い文学知識をもって明治の文学性を守りつつ、世間一般に娯楽として受け入れられるように当時の恋模様を描き出して人気を得て、文学における女性の重要を社会に再び認知させたのだ。ざっくり言うならば、一葉は明治の紫式部である。
 作家一葉の特に秀逸なのは社会感覚であり、男性と女性の力の接点の描き方が絶妙だ。男性に偏った文学では政治や思想ばかりを男臭く書かれてしまう事が多くなるが、作者の女性としての柔和な視点が加えられる事により、小説が一般的な生々しい存在感を獲得する。すなわち、男性に任せておくと恋愛さえ生理現象だと言われてしまいかねないが、一葉の筆は誰もが知っているあの恋愛というものを触れられるほど具体的なものにまで戻してくれるのだ。今では女性作家も多いのでこれを当然の感覚と思われるかもしれないが、男の牛耳る世界で名乗りを上げた功績は大きい。そもそも女性が疎外される世界ではないのだから誰でも書いて良かったのだろうけれど、当時の社会風潮が女性に未だ遠慮をさせていたのだろうし、ゆえに彼女が破ったのは文学でも社会でもなく、無益な遠慮の慣習であったと言えるだろう。
 では、何でも男女を混ぜてしまえば上手く行くかと言うとそうではない。大抵の場合は異性の領域に踏み込むと両性の摩擦から微妙な雰囲気を生んでしまって物事を悪くしてしまう。もしも一葉が小説でフェミニズム運動などを展開してしまっていたら、それはもう男女の喧嘩の種にしかならなかっただろう。女性にも文章を書かせろ、勝手に書け、女性の作品を認めろ、認めるがフェミニズムは嫌いだ、それは女性作家を差別しているのか、と不毛な争いに発展するのは目に見えている。ここで一葉は作品内に何かしらの恣意を込めるのではなく、男性たちの文学を習得した上で作家として成功する姿勢により、真に女性の存在意義を獲得する。男性と戦うのではなく必要とされる女性として社会的地位を認められるのだ。男女を入れ替えても然り、女性に認められない男性も社会での存在価値は薄い。こう言うのは簡単だが実際に異性に認められるのはとても難しい事である。
 一葉の小説が男性から絶賛されたのは、この男女間における摩擦を解消出来ている点にある。物語の中の男女の視点の比率は半々になっており、作者の観察眼は男性の心情の描き方にも妥協や妄想を持ち込まない。それで男性はそれまでの男性的な読み方のまま女性的な小説を知る事が出来るから、書き方について批判のしようも無い。そこに古典や漢語からの引用を散りばめられて、学識の高さを文学の基礎と考える連中もこんなものは通俗小説だと、文句を言えない。紫式部らを思わせる古文体のお陰で、文学は男性のものだ、と威張る者も現れないだろうし、内容が恋愛という通俗のものでも軽視されない。ここまでされたら男性は褒めるしか出来ないだろうし、異性から認められた作者は同性にも一目置かれる。
 明治期の吉原遊廓という題材も良い。まさに男性と女性のかけ引きの場であり、裏方を見れば女性を中心に据えた男女共存の社会構造がある。遊廓とは無縁の一般世間にも吉原のアイドル産業は関心事であったから、娯楽小説として発表する意義もある。江戸が終わり明治時代の男と女の付き合い方という社会テーマと、江戸末期の成熟から終焉へと向かう吉原の女性社会の現状と、男性の文学界に居場所を探す女性作家、一葉の執筆とが重なる。男女が最良のバランスで幸福を生み出す社会を問うのが根底のテーマとなるだろう。
 余談となるかどうか、しかし一葉は幸せにはなれなかった。多くの男性作家が彼女を恋したろうに、小説の悲劇と同じように、文学の悪魔は美しきものを誰の手も届かない所へと逃がして、永遠に美しくするのだ。
 
「主語が無い」
 一葉の執筆の特徴について。古文体であるがゆえ、現代の感覚だけで評価してはならない事は承知だが、それにしても読み難い。
 一つには主語の欠落がある。これは一文を詩の如く流暢に奏でたいという作者の意図したものらしく、この点は古典文法というよりも和歌を読んでいるようで、吉原の情景を思い浮かべながら「聞く」と良いのだろう。しかしながら、当時の言葉を解説抜きに理解する事は難しく、流れに乗れたなら映画の場面展開のように次々と景色が浮かんでくるのだけれど、一度詰まると流れの悪い溝川のようにタプタプと引っかかってしまう。つまりは、話し手と同調しなければ理解出来ないため、読者は自由に感想を思うことが出来ない。作者は主語を省略しているつもりなのだけれど、それを解る読者でなければ、欠落に見えてしまうのだ。
 その上、吉原の特徴や古典からの引用などが沢山あるので、相当な博識でなければどうしても立ち止まらざるを得ず、作者の求める流暢な娯楽からは遠ざかる。それならば主語述語がきちんと書かれていた方が解り易く、だから日本文学は現代の形式に移行したのだと思われるが、作者がもっと上手に書けていればその面白さを現代人にまで伝えられたのではないかと思うと勿体無い。もっと推敲して、余計な登場人物を削り、お話を脱線させて作者の感想が長く続いたりする部分をまとめるなりしないと歌のような完成度までは到達出来ないだろう。
 さらに文章構成の問題もある。各お話はそれほど長くないので複雑な構成は無いが、無駄な部分が多くて全体的にダラダラしている印象を受ける。歌には歌の、小説には小説の適当な長さがあり、もしそれが時代によって変わるものであるなら、歌のような小説というものは成立が難しいという結論になるかもしれない。すなわち、無駄の部分が流行の味になっていたりすると時代が変わった時に「かったるく」感じられてしまうのだ。しかし余りに削ぎ落とすと今度は「味気ない」と言われてしまう。月並みになるが、物語のヤマと呼ばれる解り易い面白さを、歌で言うサビの部分に配置して、構成による説得力を使ってほしかった。
 結局、全体の主語は「吉原の世界」という事になるのだろうと思う。それは女性の生み出す悲しい常世。現代に吉原遊廓は無くなったけれども、キャバクラに、AKBのアイドル商法にと散財する男性は後を絶たないのだから、時代を越えても通用する深いところまで書き込める題材だったのではないか、という気もする。

 
『にごりえ』 (39p、意味レベル三) 
あらすじ。
 料理屋とは名ばかりの銘酒屋「菊の井」のお力は姉さま風の看板娘だった。ある日、お力に結城朝之助(とものすけ)という上客がついた。結城はお力の過去を優しく聞き出そうとするが、お力は決して語ろうとしない。お力には源七(げんしち)という好きな人がいたのだ。
 源七はお力の座敷に通った金持ちであったが、商売に失敗して今は妻に支えられて子が一人、お力の元には通えなくなっていた。源七の子はお力を鬼と呼ぶ。お力は源七の事を忘れようとつとめ、源七も妻にやり直そうと諭されていた。祭りの日、お力は自分の人生がやる瀬なくなって気が狂いそうになるが、結城に慰められて持ち直し、源七の子にカステラを持たせて帰した。源七の妻がそれを知ると「あの女のせいでうちが貧乏になった」と激しく怒ってカステラを外へ放り投げた。今度は源七がそれを怒り、妻を家から追い出してしまった。
 祭りの日から幾日か経って、町から二人の棺が出される。菊の井の女は後ろから刺され、男の方は切腹だったと噂された。お寺の山から人魂か何か恨みが光となり飛んでいくのを見た者がいるという。
 
解説。
 このお話は吉原遊廓内の事では無いが、その時代の売春業について書かれている。小説の構成が解り難いが、お力と源七の妻とを相対させた作品だろう。小さな頃に両親を亡くして酌婦の生活をしているお力と、源七に捨てられては暮らしていけないと訴えるその妻とは、源七を挟んで互いに敵であるが、同じ不幸の道を歩く二人でもある。お力が源七を取れば妻が泣き、妻が取ればお力が泣く。そうしてどちらかは酌婦に落ちる。最後に源七が何故お力を刺し殺したのかが判然とせず、それゆえ難解な小説となっているが、作品全体がやる瀬ないお話なので、おそらくやる瀬なくなったのだろう。最後の恨みは誰から誰への恨みか、これも確かに書かれていないので断定出来ないが、この世に対する恨みになるのではないかと思う。

 
『たけくらべ』 (57p、意味レベル四下) 
要約。
 一 
廻って見れば吉原の大門にある「見返り柳」は長いけれど、お歯ぐろ溝に燈火の映る三階のお座敷は手に取れるかのようで、昼も夜もない繁盛を見せていた。車屋や呼び込みや、多くの家がこの恨みの町で生計を立てている。その子供には華族を気取ったような金持ちもいて、酷いやんちゃをしたり、大人をはべらせている姿も面白い。その中に龍華寺(りゅうげじ)の息子で十五になる藤本信如(のぶゆき)がいた。
 二 
八月廿日の千束(せんぞく)祭りには子供たちも大人を真似て山車(だし)物をする。それは大人だって驚くほどのものだ。
横町組の長吉は田中屋の正太郎に何年も負けている事を悔しがり、信如に龍華寺公認の後ろ盾を頼んで、正太郎の組を殴り込みたいと言う。
信如はなるべく暴力はいけないと言いつつも、長吉の憐れを思うと断る理由は無かった。
 三 
赭熊(しゃぐま)という流行の髪型を遊ぶ、愛敬にあふれて可愛くサバサバとした性格が人気の、美登利という娘がいた。この子の一家は散財したあと身売りをした姉について来て寮に暮らしている。姉は全盛の芸妓で美登利はいつも潤沢に小遣をもらっていた。美登利は正太郎の提案から、千束祭りでは二人でお金を出し合って幻燈(映写機)を買い、横町の三五郎に面白い口上をさせようという話になった。
 四 
祭りの当日。反っ歯の三五郎と仇名をつけられている次郎左衛門は六人兄弟の貧乏な家で親は人力車の車夫だったので、皆からは小間使いのようにされていて、滑稽者(おどけもの)で好かれていた。三五郎の住所は龍華寺の土地、家主は長吉の親だから、いつも正太郎たちと行動しているのは肩身が狭かったが、田中屋は貸し金で大きな財産を持っていたから、正太郎は羽振りが良かったのだ。
 五 
おめかしに遅れた美登利もやって来て、いよいよ幻燈を始めようという時、正太郎の祖母が夕飯だといって正太郎を連れて行ってしまった。そこに長吉の一団が現れて三五郎を「横町の面よごし」と罵り殴る蹴るの暴行を加えた。美登利が怒ると長吉は「姉の跡つぎの乞食女郎」と言って彼女に泥草履を投げつけた。巡査(おまわり)が来て長吉たちは逃げていったが、大家の息子と喧嘩をしたら父親に叱られると言って三五郎は一人で帰っていった。
 六 
翌日、正太郎は自分がその場にいなかった事が悪かったかのように謝り、美登利は機嫌を直した。正太郎は両親を早くに亡くして祖母と二人暮らし、昔の貸しつけの回収を手伝いながら、いつか質屋を自分で起こすと夢を話す。今度二人で意気な写真を取って龍華寺に見せつけてやろうと言って笑った。
次に会う約束をして帰っていく美登利の姿を正太郎は美しいと思った。
 七 
龍華寺の信如と大黒屋の美登利は同じ私立学校に通っていた。去年四月の運動会での事、信如が転んで泥に手を突き、美登利がハンカチを差し出した事があった。友達は焼餅を焼いて「信如は寺の坊主なのに女と仲良くしている。美登利さんは寺の女房になるから大黒(屋)と言うのだ」とからかった。信如はそれが嫌で美登利から距離を置くようになって、二人は摺れ違ってしまっていた。
祭りの事件により、長吉の裏に信如がいる事を察した美登利は「紙一枚も龍華寺の世話にはならない」と彼を憎んだ。
 八 
吉原の情景。どこの家に美人の姫が生まれたと噂されても、元はどの人も花がるたの内職をしているような家。出世というのは女の事だけで、男はその周りでゴミ漁りのような生活。賭博をするか、どの女が売れるか噂するか、そんな事をして一人前。姉を敬う美登利は花魁を賤しいとは思っていなかったが、華族を気取ってどんなに飾ってもそれは遊廓で成り立つ事で、悲しくも美登利はその生活に慣れてしまっていた。誰も為し遂げられないような大きなお祭りがしたいと美登利が夢を語れば、正太郎は「おいらは嫌だな」と言う。
 九 
仏教とはいえ龍華寺の住職は墓場で生魚をあぶって食べる腥(なまぐさ)坊主。女遊びもすれば、表向きは茶屋にして娘に商売もさせる。金の貸しつけ、商売、法用と、帳面を経のように読みながら、好物の鰻の蒲焼を息子の信如に買いに行かせ、祭りの頃には縁起物の簪(かんざし)屋を自ら開く。
さすがに体裁が悪いと言えば、お前は黙っていろと笑ってそろばんを弾いている父の姿が情けなく、信如は内気な性格になっていった。
 十 
祭りの日の騒動を信如は後で知った。長吉が謝りに来たが事後ではどうしようもない。
結局、龍華寺と大黒屋の間に挟まれて三五郎が謝罪(わび)る形で幕を引き、三五郎も恨みをそのうち忘れて、その性根のなさが好かれてまた遊び仲間の中に戻っていく。
春の祭りが過ぎ、盆の祭りも過ぎると、秋風が吹いて静かになる。いくつかの事件があったけれど、遊廓はいつも通りの落ち着きを取り戻していた。
美登利の家で正太郎と遊んでいると外に人の気配がした。
 十一 
正太郎が出てみると、逃げていく信如の姿があった。
大方うちに筆でも買いに来たのだろうが内気な性格の信如は正太郎を見て逃げたのだろうと、美登利は嫌な坊主と文句を言いながら、うつむき去っていく信如の後姿を何時までも見送っていた。
美登利の様子をおかしいと思いつつ、正太郎は将来の夢を語る。
いつか綺麗な嫁さんをもらうんだ。
店の女主人に美登利さんが好いと極めているのと、正太郎は図星をさされて照れるが、美登利は様子がおかしいまま顔を赤らめる事もなかった。
 十二 
信如がいつも通る近道に大黒屋の女郎を見せる格子がある。
雨の日、田町の姉に届け物をと母に言われて信如はそこを通る。
運悪く大黒屋の前で風に吹かれ踏ん張ると下駄の鼻緒が切れてしまった。
鼻緒を直そうとすると、傘は飛ばされ、届け物の風呂敷は泥に。
それを美登利は外で誰かが鼻緒を切って困っていると見つけて換えの鼻緒を手に取り駆けつけた。
二人はお互いを確認して焦ってしまう。
美登利はいつもなら祭りの日の仕返しを言うところ、どうした事か何も言えずに陰に隠れてしまった。
 十三 
信如は焦って下駄の鼻緒をいつまでも直せない。
美登利は信如の不器用に苛立ちながらそれを見ていると、家の中から早く戻れと母が呼ぶので、換えの鼻緒を信如に投げつけて帰った。信如は足元に落ちた綺麗な鼻緒を空しく眺めた。
途方に暮れていると長吉が通りかかって声を懸けた。
長吉の下駄を借りて歩き出す信如。後には格子の外に可愛らしい友禅の鼻緒が残っていた。
 十四 
この年の酉の市は三日間あって、なか一日は潰れたけれども、前後は天気もよく一般客がすさまじい往来だった。正太郎が団子屋の頓馬(とんま)に美登利の居場所を尋ねると、今日は髪を大嶋田結いにして、さっき揚屋町の刎橋(はねばし)から廓内に入っていくのを見たという。
正太郎は見物客に揉まれて弾き出されて廓(くるわ)の角で美登利を見つけた。初々しい大嶋田結ひに綿のような絞りばなしをふさふさとかけて、鼈甲(べっこう)のさし込み、総(ふさ)つきの花かんざしをひらめかし、極彩色の京人形を見るようだと正太郎は呆気に取られて、いつものように抱きついたりできずに立ち尽くした。正太郎は「似合うね。何故早く見せてくれなかったの」と甘えるように聞くと、美登利は「姉さんの部屋で今朝結って貰ったの、私は厭(い)やでしようが無い」と俯いて往来の視線を恥ずかしそうにした。
 十五 
人々の褒める声も嘲りに聞こえ、可愛いと振り返る視線も蔑みに見えて、美登利は自宅(うち)に帰りたいと言う。二人を見た団子屋の頓馬から「仲が宜しゅう御座います」といわれて美登利は泣きたいような顔になり、正太郎に「一緒に来ては嫌だよ」と足早に行ってしまう。
どうしたんだと正太郎が聞いても美登利は顔を赤らめて、何でも無い、と理由(わけ)ありげに言うだけ。
正太郎が寮の門をくぐると美登利の母親は「美登利が今朝から機嫌が悪くて皆が困っているから遊んでやってほしい」と言うので、「具合が悪いのですか」と真面目に問えば「いいえ、いつものように我が侭なだけ」だという。美登利は布団を出して、帯と上着を脱いでうつ伏せに臥して何も言わない。
前髪を涙で濡らす美登利に怒っているのかと聞けば何も怒っていないと言う。
憂いはもやもやとした胸の内だから誰に打ち明ける事もできなくて、ただ顔が赤くなるだけ、昨日まで知らなかった恥ずかしさを言葉にできるわけもなく、済んだ事であれば人目を気にする事はないからこんなに悩みはしない。ああ大人になるのは厭だ。どうして年を取ってしまうのか。美登利は誰にも近づいてほしくないと、正太郎にも帰ってくれと言って、口喧嘩をしてしまう。
 十六 
三五郎は正太郎の鬱(ふさ)ぐ様子を見て、長吉との喧嘩かと思ったが、そうではないと言う。けれど今夜のうちに喧嘩が起こらなければ長吉もおしまいだと三五郎が言うので、どうしてかと聞けば、龍華寺の信如が坊さんの学校に入るのだという。信如の出家はどうして早まったのか、正太郎は信如と腕っ節で決着をつけたかったと言うが、美登利の様子を思えば心淋しく、酉の市のせいか賑わいの全てが怪しく感じられるのだった。

美登利はこの日から生まれ変わったように温順(おとな)しくなった。病気かと聞く人がいれば母親は一人ほほえんで、これは中休みで今にお転婆の本性が出ますとわけありげに言い、理由を知らない者は何も分からずに、女らしくなったと褒めたり面白い子が台無しになったと誹(そし)ったりした。表町は火の消えたように静かになってしまい、正太郎の影もそぞろ寒げになったが、三五郎の声だけいつもの通り滑稽に響いた。
信如の出家の話を美登利は知らなかった。或る霜の朝、格子に水仙の造花が投げ入れられていて、美登利はそれを一輪ざしに入れて淋しく眺めたが、その日は信如の出立の日だった。
 
解説。
 新吉原の世界で成人していく子供たちの青春を描いた小説。裕福に物を言わせてやんちゃをしたり、大人の粋を気取ってみたりと飛び回っているが、その中心にいた少女の美登利が髪を結って娼妓の道に入る事で、その無邪気な遊びも終わりを迎えてしまう。美登利を取り巻く少年たちの淡い恋心や自尊心が丁寧に描かれているから、それらが美登利のような娼妓の働きによって成り立っている事を知る結末がより引き立って悲しさが表れる。
 物語は一年を通して吉原の行事と共に、そこに暮らす人々のファッションや上下関係などを具体的に伝えているので、これをノンフィクションのように信じてしまう人が多い。ところが肝心のお座敷や、何より吉原に通う男たちの描写が丸で無いため、生活とお金の事を終始述べ続けている割にはその循環が見えない。これはおそらく、作者一葉が内情をよく知らないのだ。
 小説の中心に立つ美登利は何故に遊女の道から逃れられないのか。姉は芸妓の中でも売れっ子で羽振りが良い。散財が理由で吉原に来たと書かれているので最初は借金返済のために来たのかもしれないが、借金を返し終えたら出て行って良いというシステムなので、姉も美登利も嫌なら遊女を続ける理由が無い。
 吉原という世界を分かり難くさせているのは、作中にも書かれる「お歯黒溝」により隔離されているからで、それでなくとも一般人はなかなか近づかないから噂話の他は外に出ない。作中にもある酉の市の祭りでは一般公開がされていて、この時とばかりに見物人がわんさとやって来るのは噂の吉原を一度見てみたいからだ。一葉もその時見に行ったのであろう。勿論跳ね橋を上げて遊女を廓内に閉じ込めている、というのは嘘である。遊女たちにはお金を稼いでいる自覚がちゃんとあり、格子の中でチューチューと可愛く鳴き真似をして客を呼ぶ。現代の歓楽街と何も違いは無い。
 この時代はテレビが無いから、人々の情報源は噂や雑誌だった。この中で、金持ちに見初められるトップクラスの遊女というのは美人で頭も良く服装は綺麗とまさに庶民のアイドルであった。日本一の美女が吉原にいるんだぜと噂になると、現代でもトップアイドルともなれば握手をするだけでウン十万円も取り上げているが、吉原のトップアイドルもそうであった。それでも皆が羨むトップアイドルを数時間独り占めにしてお酌をしてもらえるなら、幾らでもつぎ込みたがる馬鹿な男たちはいつの時代にもいるのだ。そして、トップアイドルに憧れた下位のアイドルたちが悲惨な状況も現代と一緒。キャバクラやソープランドといった商売と同じものが、吉原の下を支えていた。
 現代のドラマや映画に出てくる吉原の絵は下位の風俗営業の様子で、借金苦に売られた少女が毎日奴隷として強姦されているイメージをそこから植えつけられた人さえいるようだが、本当は現代の歓楽街と何も変わらない。もしかしたらその悪しきイメージは、この『たけくらべ』が世に広めたのかもしれない。吉原の外の人間である一葉は、女性で貧乏だから実際に通って遊ぶ事もできないし、周辺で聞き込んだ情報から小説を起こしたに過ぎず、詳しい事は書けなかったのだろう。若干二十四歳の女性風俗ルポライター、突撃取材無し、といったところである。
 美登利は正太郎の事を好きなのに、最後を飾るのがどうして信如なのか。小説にはこういう小さな解り難い部分もある。これは作者に仏教観があったため、さぞ悲惨な生活をしているだろう遊女たちは極楽からも隔離されていると言いたかったのだろう。美登利は格子を挟んで僧侶の信如とは関われない。これを悲しさの表現にして、決して美登利が信如を好きになっていたわけではない。読者から見れば金持ちの正太郎と美登利が結婚すれば解決するように見えるが、それは作者が悲しい物語として書きたかったために生じた矛盾であり、深く考えても仕方が無い。

 さて最後に、この小説をめぐる「たけくらべ論争」について書きたい。争点は最終的に美登利が悲しみに暮れてしまう切っ掛けについて。初潮が起こって遊女になるための髪結いが行われたからという説と、いやいやもっと悲惨に処女を売りにした最初の売春をさせられたからだという説の争いである。意味から判断すると、この二説はどちらでも構わない。どちらにしろ水商売に入る美登利の憂いを表しているので、最終的には同じ事だろう。であるから論争も無意味なのだが、あえて一考してみようと思う。
 まず文学的に文章の中でだけ判断するなら、小説の中に初潮や成人についての前書きが無いのに対し、引用される「厄介節」には性病検査の悲しさが歌われているなどから、何らかの性的な行為を経験したと見る事ができる。特に十五章の最終段落にある「憂き事さまざまこれはどうでも話しのほかの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬の赤うなり」というのを「憂き事=売春」と読めば、「話のほかの包ましさ」を「話す事のできかねる隠し事」と続いて読んでしまい、「誰にも打ち明ける事はできずに赤くなってしまう」と繋がって、特に好きな正太郎には言えない事として文章は通っているように見える。
 しかし「話しのほかの包ましさ」は「話にもならない何か嫌な感じ」という解釈も出来る。そこから「誰に言って良いかも分からず、何も言えなくなって赤くなってしまう」と、美登利本人さえ何とも言えない感情を表しているようにも読める。こちらの解釈の場合なら性的な事件は何も起こっていない事になる。
 では初潮があったのかというと、今度は美登利の母親がいやらしい言動をする。同じく十五章では正太郎が「体調が悪いのですか」と聞くとはっきり「いいえ」と答えているわりに、何か知っているような怪しい笑いをするので、読者は判断に困る。「病気ではないんだけれどね、うふふ」と母親が言ったように想像すると、これは初潮である気もしてくる。ところが、そのすぐ前には美登利の機嫌がどうして悪いのか皆が分からずに手をこまねいてる(あぐねている)と書かれている。母親が娘の初潮を知っているなら、不機嫌の原因が分からないという描写はおかしい。
 他には、十四章に「水揚げ」の意を含んだ揚屋町の跳ね橋から廓内に入っていくという描写があるので、これは性的な意味を含みそうであるし、ところが美登利は大嶋田を「姉さんの部屋で今朝結って貰った」と言うので、髪を結ってすぐに初売春をしてくるだろうかという疑問も湧く。美登利の姉はほとんど売春をしないトップアイドルで、美登利はその付き人から始まるだろう状況からも現実的には考え難い。
 十五章の「成事ならば(中略)かくまで物は思ふまじ」も「成事」を「成人の儀式」と意訳して読むか「終わった事」と文字の意味で読むかで二説を一転させる。
 ゆえに、ここでは結論として「二説のどちらでもない」立場を取ろうと思う。先述した通り、作者は吉原の内情を知らない可能性が高い。だからはっきりと書いたら間違っていると批判されてしまうし、それでも性的なものを示唆しなければ小説が成り立たない。そこで曖昧に書いたせいで後世の研究者が迷ったのだ。結局はルポルタージュのように見せたフィクション小説だから、真剣に議論しても仕方がないと言える。答えは「設定されていない」である。



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