木下昌輝 「宇喜多の捨て嫁」

kinosita.jpg二(意味レベル):何を書きたいのかテーマも見つからない。
1から5(感情ステップ):不快な人間関係、嫌悪感、愛情を求めて、騙し騙され、孤高の人。


 
2012年と14年雑誌『オール讀物』に連載、2014年書き下ろしを加えて本書。
著者:木下昌輝(きのしたまさき)、編集:文藝春秋、装画:山本タカト。
小説、42字×18行×349頁(目次1地図1白3タイトル6他1)。
構成スタイル:サスペンス形式、ドラマ調、小噺。たまに散文。
主張:娯楽。
ジャンルと要素:私小説(主人公の武家生活)、随想(戦国時代の中国地方について)、妄想(宇喜多氏の戦争)、社会(戦国時代の策謀合戦)、人情(家族)、青春(結婚)、アクション(無想の抜刀術)、ゲーム(勢力争い)、暴力(殺人など)、ライトノベル(設定の朴李)、ほか。

 
「非情には込められた人情が」
 時は戦国。武士と呼ばれる軍人達がこの国を武力で守れていた時代の終わり。国の発展と資本の増大がその安定を揺るがせてしまい、日本史上最大の内戦状態へ突入する。というのは、人や物や金銭の数量が腕力や武芸より重要になる時代が到来し、それらは領土の広さと直結する物なので、武士達は領土を奪い合わなければならなくなったのだ。守る武士から奪う武士への変化がここにあった。軍事力を高めるためには領土を増やして生産を上げなければならない。領土を増やすためには戦争をしなければならない。増やした領土を守るためにまた軍事力を高めなければならない。つまりこの時代、世界のあらゆる文明がそうなったように、自分達の平和を守るためには戦争をしなければならないという矛盾の泥沼に浸かってしまった。各地の大名達は、攻め込まれる不安を攻める事により払拭して、自ら病的に戦争を仕掛けてしまう負の堂々巡りに苛まれた。取られる前に取れ。そして、取れば取られる。ここから戦争は拡大する一方向で、豊臣秀吉や徳川家康が天下と呼ばれる全国支配を達成するまで戦争の激化を止める事は出来なかった。
 この時、西日本の中国地域は西方の毛利氏、並びに尼子氏、東方の織田勢に挟み込まれて不安定な情勢になった。この土地を守る赤松氏、浦上氏、山名氏、三村氏、松田氏、そして宇喜多氏、さらに大勢の血気盛んな豪族達は、いつ東西の巨大勢力に駆逐されてしまうか分からない恐怖に焦りながら、織田や毛利に対抗出来る強い統治者が地元から台頭してこの地をまとめ上げてくれる事を望んでいた。しかしその統治者が他家から輩出されたら自家が潰されてしまう。織田や毛利から攻め込まれる前に何としてもこの地域を自家の力で平定しなければならなかった。どの家もそう考えたのだから泥沼の戦争は避けられない。奪えば、奪われる。奪わなくても、奪われる。生き残るためには先に奪って、こちらの領土を奪い返しに来る他家を滅亡させなければならない。ゆえにこの泥沼では残酷な事件が次々と起こるようになった。
 豪族達も領主の娘を敵対する家へと嫁に出して親睦を試みたり、息子を交換して家の統合を図ったりと、戦争を止めようという動きを見せる。しかし、先祖が傷付け合った恨みは根深く、不安は常に付きまとい、疑心が不和を生み、焦りから返り忠(裏切り)を起こせば、各々の不審はすぐに確かな恨みへと戻ってしまう。結局、誰かが完全な勝利を手にするまで終われない戦争の中で、互いの腹の中には策謀ばかりが溜まってゆき、隣近所を倒すためなら本来は敵であるはずの織田や毛利に庇護を頼む家も現れて、当初の名分も忘れた殺し合いへと陥ってゆく。
 この情けない世界に人情を狂わされたのか、宇喜多直家は盟約を次々と裏切った末に自分の娘を嫁がせた家ごと皆殺しにするという非情な事件を起こしてしまう。そして遂に彼の蛮行は負の螺旋を断ち切り、この地域を統治するまでに至るのだ。彼の物語は現代にいくつもの小説として書かれ人々の関心を引き付けるが、この小説『宇喜多の捨て嫁』は直家の家族殺しの成功に焦点を当て、彼が外道を行った理由を新たに創作し、「捨て嫁」にされた娘、於葉(およう)らの目から「非情なだけではない新しい直家像」を見つめ直そうと試みる。直家はどうして家族にまで手を掛けなければならなかったのか。歴史書には書かれていない人情の物語がそこにあった。
 という風に見せかけたライトノベルである。
 
「勉強不足」
 裏切り、殺し、裏切られ、殺されそうになり、戦争を終わらせるためだからと、皆殺しにする。それは自分の娘さえ裏切り殺さなければならないほど非情を要する事なのか。しかもこれは史実に刻まれている現実に起こった結末なのだ。という所見が宇喜多氏を研究する面白さであると上記を読んで理解してもらえるだろう。ところがこの小説は、その研究に新たな一説を加えられるほどの面白さが表れない。
 どうしてかと言うと、このテーマは史実である事が重要なのだ。戦争の悲惨を説いた物語は古今東西フィクションでも山ほどあるし、親子の殺し合いなんていくらでもあるが、そこにわざわざ史実の宇喜多を選んで一石を投じるという選択が実を結ばないのであれば、これを取り上げる意味が無い。この小説がライトノベルだと言うのは、宇喜多に関する情報から作者が妄想を繰り広げているだけで歴史の検証を全く行わないからである。つまり、この作品における宇喜多の史実は小説作者の妄想に臨場感を持たせるための言い訳に過ぎない。宇喜多を書いたのではなく、宇喜多で書いたのだ。
 文学の中には歴史歪曲をわざとやって楽しむ娯楽作品も沢山ある。例えば織田信長が本当は女だった、という作品があっても全く歴史研究の価値にならないが、そこから歴史観とのチグハグを起こせたら娯楽的に面白くなるかもしれない。「美少女は本能寺にあり!」なんて台詞があったらそれを襲う明智光秀は一瞬で悪にされてしまうだろう。あるいは攻め方によってニッチなファンを獲得できるかもしれない。史実との「違いを楽しむ」これはつまりパロディである。しかし『宇喜多の捨て嫁』は小説に書かれる史実事体に作者の考えた物語を練り込もうとしているのでパロディにはならない。
 また、歴史小説という物は多かれ少なかれ作家の妄想ではないのか、という見方もあるだろう。戦後の多くの作家が史実とフィクションを混合させた娯楽作品を描いて間違った歴史認識を広めてしまっている例はいくつもある。この場合には二つあって、一つは作家が本気で自分の妄想を信じ込んでしまっているタイプと、もう一つは作家自身が嘘を付いている自覚をしていながら仕方なく書いているタイプである。『宇喜多の捨て嫁』は後者の方だ。「無想の抜刀術」などというものがあって、それは相手が刀を振るとこちらが無意識に刀を抜いて斬り付けてしまうというもので、母親に殺されそうになった直家はそれで返り討ちにしてしまうという下手な漫画のようなお話を本気で書いているはずはないだろう。妄想に自信を持っている前者ならば歴史研究の一手になれるが、作者自身が最初から嘘だと知りつつ書いている物に事実は付いてこない。
 これなら宇喜多ではなく完全にフィクションの題材を用意した方が良かったのではないかと言えば真にそうで、主要人物の数人で殺し合いをしているだけのスケールの小さい作風なども現代ヤクザ物を創作した方が適当だったろう。宇喜多を題材にした事から逆に粗が目立ってしまうのだ。読者は「これはあり得ないな」とか「これは間違っているな」と思う箇所を見つけると小説もどんどん詰まらなく感じてしまう。登場人物の造形も人間味の無い漫画キャラクターばかりだから、事実に置いてみると違和感があり過ぎる。ここまでくると、どうして宇喜多でいけると思ったのか、作者の自信が不思議なくらいだ。
 宇喜多の面白さが無い。これは、小説、歴史観、共に勉強不足だと言わざるを得ない。
 
「小説が汚い」
 執筆においての特徴は、とにかく汚い。
 この作者には文学や歴史学といった文系の視点が欠けている。このため、宇喜多直家のキャラクターを作るにあたりその非情を現物の汚さで表現しようとして、血膿、体臭、糞尿、死骸、虐待、など汚い物を並べてしまう。宇喜多の精神に着目している読者からすれば無駄に並べられた汚物がただ小説を汚しているようにしか見えないが、作者はそれが分かっていない。血膿を見て十人が思う事は十色である。作者と読者は同じ物を見ても同じ感想を持てるわけではないのだ。それに体臭で歴史は動かない。作者の気分はそれで盛り上がっても読者には冗長だ。物より精神を描け、どうせ紙と文字なのだから、という小説の基本をまず押さえなければならない。
 構成も良くない。六つの短編でもないのに六つに散らかってしまった執筆のせいで、そもそも誰が主人公のお話なのかが分からない。最初は「捨て嫁」の於葉の視点で書かれるので彼女がこの本の主人公なのかと思いきや、続くお話では宇喜多直家の事ばかりで捨て嫁が出てこない。それで直家の人物像をテーマにしているのかと思えば、今度はライバルの浦上宗景が悩みだす。では、二人の戦いの歴史がテーマなのかと思えば最後は江見河原源五郎(えみがわらげんごろう)という脇役が語りだして直家の死を看取る。読者に何を伝えたいのか、一貫したテーマを持つべきだ。
 二話目「無想の抜刀術」では読者に語りかけるという二人称的な実験を突然に始めるから浮いてしまい、全体の居心地を悪くする。三話目「貝あわせ」から始める、真の悪は浦上宗景であり宇喜多直家ではなかったという展開も、一話目の「宇喜多の捨て嫁」を台無しにしてしまう。直家の策謀と戦おうとする於葉が返って術中に嵌っていく姿が作品の面白さであるはずなのに、直家が善人だと言われたら於葉は何に翻弄されていたのか解らなくなってしまう。文学賞の応募時に二話目以降を想定していなかったのかもしれないが、それなら無理をして続きを書かない方が良かった。
 言葉の使い方も怪しい。作者は歴史物が好きなのか語彙量は多いのだが、一つ一つの使い方が甘く、間違っている表現も見られる。つまり、知識量のせいで返って悪い。特に現代口語と古い文語が混ざっている作風が大変読み難く、それが会話になるともう昭和チョンマゲドラマの趣で、儂は辟易するのじゃ。重要な名詞以外は自信がないなら現代語に統一して良いだろうし、そもそも作者は歴史物に向いていない。
 ここまで言って良いものか迷うが、あえて言わせて頂けば、執筆の癖が致命的だ。要素Aの前に反Aを置いてAを強調する技法を毎回使うのはいかがなものか。余りにも単調過ぎて飽きてしまう。死んだけれど、やっぱり死んでないという反転も多用されると命が軽くなってしまう。何でも覆せば面白くなるというわけではない。ネタがなくなると小物に逃げる癖も毎回同じだ。「宇喜多の捨て嫁」では碁の名人が出てきて戦況を碁で説明するまでは良いが、その後に小説の内容を説明する会話で貝あわせを用いるのが良くない。せっかく碁を出したのにどうして碁でやり切らないのだろうか。ここで貝あわせを気に入ってしまったのか、以後のお話では女児が出てくる度に貝あわせを始めるのも雑だ。それしかやる事が無いというのか。つまり内容は要素Aと反Aの繰り返しで、中に汚物と小物が出てくるというだけの350頁も読ませるのは、ちょっと厳しい。
 あとは日本人の心の表現。時代物だというのにそれが全く無いのは不思議なくらいだが、時代小説が好きな人は漏れなく人情が好きなので、娯楽小説として出すならその研究は欠かせないだろう。
 総じて、何をやりたいのかよく分からない小説というところ。せめて一貫したテーマくらいはあってほしい。

 
あらすじ。
「宇喜多の捨て嫁」 (67p)
 宇喜多家の四女、於葉(およう)は宇喜多家にまつわる不幸の運命を振り払うために武芸をたしなんでいた。父の直家は尻はすという奇病にかかっていて血膿の腐臭がする。直家の汚れた着衣は旭川に捨てられるが、それを拾って売り物にする〝腹裂きの山姥〟がいるという。
 宇喜多の敵である後藤家の嫁取り奉行として於葉をもらいに来た安東相馬は碁の名手。碁の「捨て石」になぞらえて後藤家に嫁がされる於葉の事を「捨て嫁」だと無礼にも言い放った。
 於葉には嫁ぎ先に殉じて直家と戦う覚悟があった。直家は「捨て嫁なる声に打ち勝ってみせよ」と笑う。
 嫁ぎ先の美作(みまさか)では敵襲があると陣鐘(じんがね)が鳴らされると侍女の玉菊が言った。
 於葉の祝言の日に直家は領主浦上松之丞に謀反を起こした。松之丞に嫁いだ小梅は於葉の姉で、自害したという。
 夫となる後藤勝基(ごとうかつもと)と貝あわせで遊んだ。二つの絵柄が合った。
 於葉は安東相馬の嫡男、郷左衛門に見張られていた。宇喜多の挙兵を知らせる陣鐘が鳴った。
 於葉は勝基の鎧の威し糸(おどしいと)を結う。
 郷左衛門は玉菊に「死にたくない」と泣きついていた。
 勝基は郷左衛門が不埒を行ったと責めるが、これは玉菊と祝言をあげさせる余興だった。しかし郷左衛門の父相馬はあわてた。
 相馬と宇喜多家の内通を示す書状が見つかった。
 安東相馬は碁を打っている。
 於葉は安東相馬を斬った。父を守ろうとした郷左衛門は勝基に斬られた。相馬は「我が頸を裏切り者として、門前に捧げよ」と言い残して死んだ。
 相馬が返り忠(裏切り)をしたと思ったことは間違いだった。誰かに騙されたのだ。仕掛けたのは誰か。その時、陣鐘が鳴り、宇喜多勢が襲ってきた。後藤家は相馬の頸のおかげで家臣の変心を抑える事ができた。(彼の遺言は)あえて逆心の汚名を引き受けての捨て身の一手であった。しかし相馬を失った後藤家は半年後に敗北し勝基は死んだ。於葉は尼になって三年がたった。直家の死の報せを聞いた於葉は自分が相馬を斬った脇差を見つめる。晩鐘の音が耳に届いた。
 
他、五話。


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