筒井康隆 「旅のラゴス」

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二(意味レベル):主人公ラゴスの学問の旅。何も学ばないけれど。
2から5(感情ステップ):好奇心、恋愛、我慢、孤独。

 
1984年-86年雑誌『SFアドベンチャー』に連載、1986年本書。
著者:筒井康隆、編集:徳間書店、装画:野原幸夫。
小説、43字×17行×216頁(目次3タイトル1白1他1)。
構成スタイル:サスペンス形式、並びに散文。
主張:学問(哲学)と娯楽。
ジャンルと要素:空想、社会、サイエンスフィクション、人情、青春、アクション、逃走劇、冒険、暴力、ほか。

 
「西洋ファンタジーと日本」
 2016年現代の日本の創作について注視しなければならない(が、あえて無視されているようにも見える)一つの不思議な傾向がある。それというのは西洋ファンタジーとそれを基礎とした亜種の盛況だ。1980・90年代は特に顕著で、アニメーションでは『天空の城ラピュタ』のような宮崎駿監督作品や、ビデオゲームにおいては中村光一監督『ドラゴンクエスト』や坂口博信監督『ファイナルファンタジー』などの大ヒットが社会現象と呼ばれるまでになった。ところが、こういった傾向を全く知らない国民はいないのではないかという程の大きなムーヴメントであったのに、その源流はどこにあるのか、どうして日本で西洋風ファンタジーが流行ったのか、また西洋でなければ成らない理由さえ、あまり追究されないし、小説からは同ジャンルでも社会を動かすようなヒット作が生まれない事についても研究されない。今回『旅のラゴス』を取り上げるのは良い機会なので、まずは西洋ファンタジーの伝来から考えてみよう。
 ファンタジーの起源は古代伝説まで遡れる。ギリシャ神話の創作や、西欧諸国のサーガ、さらにここまで言及すると争論の危険はあるがあえて挙げるなら、旧約聖書もそれであったと言うことが出来る。各々に共通する部分は、本来は口承であった事と、それが語り継がれる土地の先祖や起源を説明している事だ。すなわち昔話である。我々日本人は『桃太郎』などに置き換えて想像すれば解り易いと思うが、これらの伝承は主に未来の語り手となる子供たちへ向けて語られ、子供たちが聞き飽きないように脚色され、時には教育の材料に使われて、活用されて来た。伝える事を義務とするだけでなく(もちろん初期の目的はそうであったかもしれないが)、後世にまで自然と受け継がれてゆくためには娯楽性が不可欠である。詰まらない話は誰も聞いてくれない。この名残りは今日に創作された新興ファンタジー作品にも押しなべて見られる。つまり、ほとんどが子供向けで、娯楽に脚色されている。今ではそれに拘る必要は全く無いはずなのに、どうやらファンタジーとはそういうものだと多くの人が感じているようだ。
 ここまでを見て重要な事は、ファンタジーが人類の起源から作られ続けてきた「創作の本流」である事と、近年このジャンルは一作家の妄想的な作り話だと認識されているが必ずしもそうではなく、脚色の部分が肥大して観客にそう思われているに過ぎない事だ。本来のファンタジーは民族史の伝承であるわけだから内容に根拠があったのだろうし、それこそが重要だったはずなのだ。ところが今ではファンタジーと言えば事実無根の新しい創作のもので、日本では西洋ファンタジーの輸入に際して幻想という言葉を訳語に充当させたから不思議に面白がって楽しめば良い作品だと誤解されてしまう可能性があるし、本家西洋の現代人も少なからずそう思っているようにさえ見える。創作性は本来のファンタジーにおいて本質では無く、これはとても重要な事なのだ。
 それから、ファンタジーは人類史の傍らに常に居続けながら二度の転機を経験する事になった。一つは紙と印刷が流通して口承から伝記に形が変わった事。もう一つは異文化交流が大航海時代を経て急速に進化した事である。
 口承が伝記に変わるという事は、それまで時代毎に脚色されて来た流行が止まるという事を意味する。原本として書かれてしまった物語は固定された文字として以後内容が変化しない。これによりファンタジーが子供たちの興味を牽引してきた脚色は取り残され、古臭い伝記として書庫の片隅に置かれる事になって、最新の歴史との繋がりは一度断たれてしまう。それ以後の人々が個々の時代に合わせて脚色したものは亜種として認定され、これは伝承を必要とせずに脚色を楽しむための「後世の我々が考えるファンタジー」に成って行く。勿論、亜種が広まり過ぎて原作がそれに飲み込まれてしまう事もあるし、そもそも紙に書かれた時代では既にどの口承が最も確かな原作であるとも断定出来ない後世であったから、揺ぎ無きオリジナルは存在しない。これが聖書の保存に見られるように、一番古く信憑性のある物語をオリジナルと定め、それ以外を亜種とし、いつかもっと古く確かなものが見つからない限り、中世時代に原本と認めた最初の書物を最も重要で動かしてはならないものにするという原則を生んだのだ。今でも中世ファンタジーが語られるのはこれが理由で、この時、止まったファンタジーは語り継ぐ必要を失って一度死んだのである。
 もう一つ、異文化の交流は大きな転機を迎えた。元々からファンタジーはその土着民族の起源を表していたから、方々で語り継がれて来た物語は多様なもので、東の果てでは桃から人が生まれたりしている。しかし宗教が絡む場合は特に厄介で、地球の誕生から「自分たちが人間の始まり」として決められていたファンタジーは、当然の事ながら各地で矛盾を生じた。起源や辻褄の合わない歴史語りが方々で脚色されて沢山あったのである。元よりファンタジーは史実と脚色の分けられないものであったし、後世の我々には正否の判断が出来ない。であるから、当初は人類物語の一本化が試みられた。全ての民話の辻褄を無理矢理にでも合わせることが出来れば人類の始まりは確定するはずだった。旧約聖書などにはその傾向が見られる。が、無論の事、頓挫した。世界は広く、異文化が存在したのだ。聖地イスラエル周辺の多民族の伝承の違いくらいなら、起源はおよそ近い所になるので何とかなる。しかし例えば東の果ての日本人が「桃から生まれたのがイエス・キリスト様だよ」なんて昔話の統合を提案してきたら、西洋社会の誰であっても「桃が邪魔だな」と思うだろう。ここでファンタジーの更新が再び必要となった。すなわち、広く長く伝わって他の民話を淘汰したものが、一番正統なる唯一の伝承になれると気づくのだ。簡単に言えば、自分たちと違う歴史を持った国々は攻め亡ぼして自国の文化の一部に塗り替えてしまえばいい。物語は作ってしまえば良いのだ。こうしてファンタジーは息を吹き返し、対外への侵略の歴史を伴った新生ファンタジー(創作)に生まれ変わる。
 世界を作った神の力は時代に合わせてキリスト教会の権威に代わり、民族は鋼鉄の鎧をまとった騎士になり、蛮族との戦争に勝って自国を成立させた英雄譚が流行る。そのうち魔女が噂になれば魔女が登場し、魔術が囁かれたら魔術を登場させる。起源を口承する事よりも、創作を流通させる事の方が重要になり、西洋の戦史と共に次第に外界へと浸出して行く。
 西洋史において異文化の玄関口はイスラエルより向こうのペルシアだった。さらに向こうの東南アジアやアフリカは彼らから見れば未開の蛮族でありその歴史文化などは重要視されなかった。すなわち西欧内戦時代から飛び出した彼らが最も意識したのはオリエント文化(アジア)であったろうし、インドを目指した植民地支配はこの制圧が目的だったとさえ言えるはずだ。我々日本人は東とかアジアと言われると自分たちの事を考えてしまうので、イスラム中央アジアと東アジアを分けてほしいものだが、西洋から飛び出したばかりの彼らにとってみれば中央アジアこそ東の文化だったのだ。この中世から進歩する時代に、敵対する異文化の象徴として関心を持たれたファンタジーが『アラビアンナイト』である。西洋ファンタジーが進化したのと同じように、東のファンタジーの代表として『アラビアンナイト』も数百年の間を創作によって進化し続けていた。ここに西洋文化の求められる好敵手として東の蛮族の代表となったイスラムの砂漠の民は、香辛料やダイヤモンドの西洋での価値を暴騰させた。胡椒など今ではそれ程大したものでも無いが、当時の西洋の印象では頭にターバンを巻いた残虐な戦闘民族に守られた魅惑の粉だったわけである。
 いよいよ大航海時代の終わり、1800年代にはスティーヴンソン『宝島』などの西洋産東洋ファンタジーが流行し、ここから創作ファンタジーの一大ブームが起こる。その頃には魅惑の大航海が世界を一周してしまい、これ以上の冒険を続けるには想像の開拓をするしかなかった。作家たちは聞いた世界の話から空想を練り上げて、例えば物品の加工を得意とする背の低い東アジア人をドワーフの国として作り変えたり、西洋諸語を話せず粗末な麻を見にまとっただけの部族からゴブリンを創作したりと、様々なファンタジーを作り出す。それを古来の西洋ファンタジーとすり合わせたりして信憑性を高めたり、剣や魔術や戦争と絡めて世界を広げて行った。ファンタジーには民族を表すという根底があるから、数多のファンタジーは異文明との接触という大きなテーマを引き継ぐ事になるのだ。
 1900年代には、これらが日本にも翻訳されて伝わる。特に大戦後の騒乱が落ち着いた頃には西洋文化のファンタジーが冒険活劇の新たな娯楽として受け入れられるようになった。パンとブドウ酒を好む西洋人の船乗りの描写などは、異文化に憧れる少年たちの心に西洋の空想を生み出し、元が創作なのでアニメや漫画との親和性が高く、それでいて日本的人情劇にされてしまったりと、娯楽という側面だけを受け継いだ楽しければ何でもありという混沌を想像させる事になったのだ。これが先のアニメーションやビデオゲームに成って、日本人名の主人公が西洋剣を振り回しながら魔術を唱えて船旅をするような物語まで誕生するのである。その精神の根底にはアメリカへの羨望を入り口とした西洋文化への憧れがあるから、東洋物はあまり流行らなかった。また小説においては海外の原書を輸入した物が先にあり、品数も豊富で何よりも西洋のリアリティが完璧であるため、それを加工した変な漫画やアニメが流行ろうとも、小説ではどうしても説得力に欠けてしまう。日本人の書いた西洋物に本来の魅力が宿るはずは無いのだ。
 これは輸出しても同じ事で、日本人が正統的な西洋ファンタジーを描こうとすれば、日本人の面白いと思う感性と西洋人が求めてきた歴史的なそれとの食い違いが明確になり、何か違うという冷ややかな空気を生んでしまう。代わりに、和洋折衷ごった煮の混沌ファンタジーを描くとその変な魅力が西洋人にもたまにヒットする事がある。ここから近年の日本産ファンタジーは多文化が混ざり合った近未来の設定を取る事が多くなり、銃も剣も魔法も何でもありの外国人忍者が異星人の侵略者をやっつけたりするのである。
 
「間の悪いファンタジー小説」
 さて、前置きが大変長くなってしまったので、手短に『旅のラゴス』について評する。
 この作品は西洋ファンタジーとしては正統な面立ちで、そこに作者の空想科学への興味による哲学的考察を絡ませた、どうやら作者の自信作らしい。発表年は先述した1980年代日本のファンタジーブームを丁度良く先駆ける頃であった。近年はライトノベルに流行るファンタジーを意識したのか、昨2015年辺りにもインターネットを通じて盛んに宣伝されていた。それなのにどうして本作はヒットしないのか。
 まず、発表した時代には日本人の描く西洋ファンタジーというのがいけない。何より小説でやるのが駄目だ。加えて遊牧民をモチーフとした東洋ものであるのもいけない。哲学的考察も子供向けに邪魔となる。空想科学をやるなら近未来混沌までいかなければパンチが弱い。今日に再挑戦するならこれらの問題はクリアされそうだが、そうすると今度はいささか古臭い。西洋ファンタジーブームは終わってしまったのだ。まさに、間が悪い。
 作者はファンタジーの性質も見誤っている。古ファンタジーは口承の歴史であり、新ファンタジーは創作の娯楽であるから、今やファンタジーは最新の流行を追わなければ成らない。物事の起源や民族性を追うスタイルは古ファンタジーとしてあるべき姿ではあるのだが、それを現代でやっても仕方がないのだ。仮に旧約聖書を新たな切り口から読み解いたり(最近の流行で言えば登場人物を全員美少女にしてみたり)、エッダを近未来設定にして再構築すればまだヒットの可能性もあるかもしれないが、何の根拠も無く作者の空想を哲学的に読み解いたところで、作者を特別に好いている人以外には興味が湧かない。
 また、ファンタジーの創作性というのは、適当に嘘を書いて良いというわけではなく、内容を精査されない(または出来ない)という性質から成り立つ。だからその内容は適当に濁さなければ成らない。例えば瞬間移動があったとして、それを科学的に説明してしまうと成否を読者に精査されてしまう。これは無理だねと読者に思われたらそこで小説はおしまいであるし、もしも成立するならファンタジー小説を書いている場合ではない。今すぐ『ネイチャー』に投稿すべきだ。これらを哲学的に考察する作者のスタイルは故に矛盾を孕んでしまう。究明しては成らないものを究明しようとするからだ。ここは「顎」という章でスカシウマという動物に乗って空を飛ぶように理屈抜きで娯楽に徹する他はない。すると結局は作者の持ち味を活かせずに、普通の新興ファンタジーに成ってしまうのだ。
 ファンタジーを創作の起源と睨んで冒険していく物語は面白い。ただし結末が初恋の少女像を追い求めて行くというのは作者個人のおっさん的願望が表れていて情けない。物語の脈絡や必然性が弱く、作者がたまたま思いついたアイデアを紹介したような章節も多くて本としてのバランスも良くない。奴隷のあり方もどこかで読んだようでオリジナリティの無さが詰まらないし、全てが空想かと思えばペニシリン薬やマテ茶が登場して嘘臭くなるし、コーヒーの実は食べられないと間違って書かれていたり、執筆の甘さも目立つ。作者の言葉が丁寧で分かり易い文章は相変わらず良いのだが、小説世界を旧字体で表現するのは構わないとしてせめてルビを振ってほしいとも思う。その他、特筆する事はないが、このジャンルが好きな人なら何かを考えるきっかけくらいには成るかもしれない。
 作者の空想の元ネタがそれぞれ何なのか、もしや壮大な暗喩があるのではないかとも考えて読んだが、物語自体に大した意味が無いので、求める意味もまた無いだろう。主人公ラゴスが学問を求めて歩く旅路なのに、意味がほとんど無いという結論に至ってしまうのは、残念と言えよう。

 
あらすじ。
 集団転移(12p) 
ムルダム一族という放浪する牧畜民族に加わり、ヤシという少女から動物と心を同化させる技を学んだ。おれはイメージした場所へ集団転移できる術を助けて、彼らと彼らの故郷シュミロッカ平原に良いトリップをした。
 解放された男(10p) 
村娘のデーデはおれのことが好きらしい。村の暴れ者ヨーマが取り押さえられて石牢に入れられた。
 顔(13p) 
ムルダム一族からスカシウマをもらい単身南への旅を続けた。デーデのことを思い出した。道中でザムラという人気の似顔絵描きと出会う。彼は自分の顔を相手の心象にある理想のイメージに変えてしまえる特技があるという。ザムラは酒場でズダロフという男に目を付けられて殺された。ズダロフの顔に変わってダイイングメッセージを残していた。
 壁抜け芸人(15p) 
壁をすり抜ける特技を見世物にするウンバロという芸人と出会う。彼は宿屋の娘を手に入れたくてこの技を会得したという。おれは娘の変わり身となって部屋に泊まり、壁を抜けてきたウンバロにおれの裸を見せつけると、驚いたウンバロは壁抜けに失敗して壁と同化してしまった。
 たまご道(11p) 
立ち寄った石造りの町には街道にたまごが埋まっていた。夜中にたまごを求める大蛇が彷徨っていた。
 銀鉱(27p) 
パドスの町で予知能力があるラウラという女性と出会う。町に不吉なことが起こるが二人で一緒に砂漠を歩く夢だったと言う。翌日、町は奴隷狩りの一団に襲われておれも捕まった。銀鉱で労働させられて数年が経ち、銀の精錬法を提案して頭目に認められ、ラウラと所帯をもった。七年後二人で逃げ出し、おれは「ひとりで旅を続けなければいけない」と言って砂漠で彼女と別れた。
 着地点(12p) 
ワインの海を航行中、タッシオという無口な子を連れたボニータという女性と出会い、彼女の故郷キチに同行した。キチには宇宙船の残骸があり、案内役のゴゴロ爺さんから話を聞いた。二千二百十五年前、高度な文明を持っていた我々の祖先は機械を失って原始的な生活に戻ったと言う。タッシオはその話を全て暗記していた。
 王国への道(32p) 
先祖の足跡を求めてポロの盆地に来た。森を守るカカラニという娘と出会い、村長の薦めでニキタという大人しい娘の世話を受けることになった。先祖の残したという建物に入り、そこにある書物を何日も読み耽った。本によって森に自生する木がコーヒーであることを知り、カカラニに栽培や焙煎法を教えると、村は大儲けをして数年で都市になり、おれは王様になった。村長を宰相にして、カカラニとニキタの二人と結婚した。双方に息子もできた。タッシオを迎えて二人で勉強を続け、ある日おれは王国から旅に出た。
 赤い蝶(12p) 
デーデに会いたくてシュミロッカに行った。デーデは暴れ者ヨーマと結婚して村を出て行ったという。幻を見せて獲物を呼び寄せるという赤い蝶がデーデの姿を見せたが、おれは我慢した。
 顎(あぎと、9p) 
顎の原で盗賊団に追われて殺されそうになった。スカシウマと心を同化させると飛んでみせると説得され、崖から空を飛んで逃げた。
 奴隷商人(21p) 
スカシウマを殺されて奴隷商人に捕まった。連れて行かれた先はおれの故郷だった。親戚に見つけてもらって助かった。
 氷の女王(36p) 
おれは学者になった。タッシオが追いかけて来たので後は任せてまた旅に出た。どこかの絵描きが描いた氷の女王がデーデに似ていたから北の果てを目指して。


この記事へのコメント

  • あなたの批評には豊かな知識があり論理だてられていて、私は好きなのですが、論理的であるが故にあなたの意見の根底にあるシンプルで感情的な敵意をかんじずにはいられないのです。あなたはどんな小説、文章が好きなのですか?教えて頂けると光栄です。
    2017年08月28日
  • 旅のラゴスは遠い未来を舞台にしたSF小説だと思います。
    2019年10月28日
  • 批評界の管理人

    物語にその時代より高度な書庫が出て来ましたので、ご指摘の通り筒井さんは文明ループの未来を描きたかったのかもしれませんね。
    原始に現在より高度文明があったという創作は一大流行しました。その視点で批評するのも面白そうです。
     
    しかし文明ループは小説に時間概念がなくなって純粋ファンタジーになってしまう。というところまでこの小説は行き着いていると思います。他の数多のファンタジーも現在文明ではまだ出来ないことを既にやっていますから。
    つまり、この小説には未来性が無いのです。
     
    それよりサイエンスが足りないのでSFとは言えないかもしれません。
    筒井さんの癖でしょうか。
    スカシウマさえ飛ばせなければ・・・あるいは。
    2019年10月30日

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