吉川トリコ 「少女病」girl-disease

toriko.jpg一(意味レベル):テーマが実は無い。
1から6(感情ステップ):互いに不快な女だらけの家族は、観察し合って、幸福を模索する。家を飛び出し孤独になって、家族を認めるようになり、幸せに戻る。

 
2010年『小説宝石』に連載、2011年書き下ろしを加えて本書。
著者:吉川トリコ、編集:光文社。
小説、42字×19行×209頁(タイトル1目次1白1他1含む)。
構成スタイル:散文。ドラマ調の小噺が入り乱れる。
主張:娯楽(自尊を含めた)。
ジャンルと要素:私小説(生活描写から社会を描く)、随想(女性のあり方)、妄想(作者の空想世界の感想文)、コメディ(家族劇)、人情(恋愛と家族など)、青春(女性)、冒険(主人公の成長)、ライトノベル(少女漫画の設定)、ほか。

 
「平凡な妄想を大袈裟に説明」
 小説の体を模したエッセイ本である。収められた四本の小説には全くと言えるほど物語が無く、登場人物はすべて作者の分身となり個性は無く、ふわふわ何となく同じ方向へと進んで行く。内容は作者の「わたしの気持ちを分かってね」という一方的な要求で、小説の中身も無く、主人公の悩みや人物たちの衝突は適当に描かれ、しかもどこか古臭い漫画を演じていて、だらだらしている。つまりは、少女漫画のような恋愛が欲しかったけど、そんな事が現実に無いのは分かっているよと言い訳をした挙句、でもそんな私の気持ちを分かって欲しいと、身内にでもするべきワガママを本書にて説明しているのだ。
 小説の技術的な部分は、文章構成という基本を全く習得出来ておらず、無駄な繰り返しも多く、難しい言い回しを多用しても意味の捉えが浅く、物語は一般的ではない家庭環境を売りにしているのに一般読者から共感をもらおうとする甘えた作風など、小説を舐めているとしか言いようが無い。
 あら、こんな批評の書き出しを以前にもしたような、と思い起こせば、かの作家を女性にすると丸でこの作家、というわけである。
 
「意識高い系、再び」
 以前その批評では、昨今に流行した「意識高い系」という揶揄について、和製ラッパを心地良く吹いて聞かせる気分で知識をひけらかす事だと解説した。これは主に男性の場合であり、女性の「意識高い系」というのはこの知識が雑学ではなく、「わたし」になる。幸福、美容、健康、食事、服飾、処世術の小ネタから恋愛のハウツーまで、語り出す「高い意識」は全て「わたし」と関係する。これは、男性の意識は外に向いていると一目置かれる(頭が良いと思われる)のに対し、女性の意識は内に向いていて、「わたし」をよく知って上手に使いこなせている事が女性の尊敬に直結するからと言える。男性なら自分を投げ捨てて仕事をしている人の方が格好良いとされるのに、女性なら自分を投げ捨てた時点で格好悪い。自己の欲求をスマートに達成する方が女性は格好良いのだ。
 しかしながら、「意識高い系」というのが揶揄の言葉であるように、女性においてもこれを自ら語ってしまうと、みっともない。高いのは意識だけだからだ。結局、どちらの性別においても「他者から良く評価されたい」というのが本音で、この意識の気高さを褒めて欲しいのである。だからこれが成功すれば、格好良いと尊敬してもらえるし、失敗してしまうと、褒めて褒めてと他者の顔色をうかがう姿勢が疎ましがられて、周囲の鼻に付く。それで揶揄に繋がってしまうわけだ。
 作者はこの「みっともなさ」を『少女病』の軸に据えようと考えたようだ。「少女病」とは作者による造語らしく、これまた昨今に流行した揶揄の言葉で「漫画などの空想と現実世界を区別できない中学二年生頃の感覚」を表す「中二病」の女性版ということらしい。中二病の少年は漫画の表現を格好良いものだと信じて疑わず、だからそれを気取ってしまうのだが、大人の目で振り返ると「気取りたい意識」以外はただの妄想であり、実に滑稽でみっともない。これを少女に置き換えればそれは少女漫画になり、突然画面の隅に薔薇の花びらが舞うように誇張された恋愛観が、少女にとってのそれだと言える。作者はこの感覚を「少女病」と銘打って自己分析を披露する事により、私は自分の子供っぽい気取りと妄想のみっともなさを分っているのよと、その意識の高さを小説で披露したいのだ。
 これを表現するために、物語の主人公たちに少女病を引きずったまま大人に成ってしまった設定を与えて、その人生を自戒させる。私は少女病を患っていたから人生が上手くいかなかったのね、そして、その事を作者の私は理解していますよと言うわけだ。ところがこれを真面目に描くと実は普通の少女小説に成ってしまう。少女から大人に成りました、という単純な物語だ。作者は少女の成長よりも「少女病」にフォーカスした「高い意識」を表現したいので、小説の少女たちの気取りがみっともないのだと説明に明け暮れてしまう。それで物語は全く進まず、私のアレが悪かったコレが悪かったと理由ばかり述べ続け、物語の人物について唐突に作者の感想まで差し込まれる「みっともない小説」が出来上がる。
 「少女病」を捉えようとするこの意識の高さは、真に「わたし」を分かっているなら格好良く決まるはずだが(もちろん読者もそれに期待して読むのだろうが)、この必死な理由説明によって、作者の「わたしの考え」を分かって欲しいというみっともなさに変貌してしまう。特に女性作家は自分の考えを分かって欲しいという「わたし小説」をよく書くので、ともすればこの小説もそう読めてしまい、どこかに「少女病」があったのか気づけない場合さえあるだろう。なぜなら少女病は作中に無く、作者の意識の中にあるだけだからだ。
 
「絵の無い漫画」
 小説の出来についても見ていこう。一言で表すなら、大いに悪い。
 まず意識が不味い。先の解説の通り、この作者から何かを得ようとしても何か得られるどころか、理解をくれと逆に迫られる始末だ。これは例えるなら、カウンセラーに自己の悩みを打ち明けて、話してやったんだから金をくれと患者から迫るようなものだ。作家は自己の悩みを打ち明けているだけではいけない。そんなものはファミレスで友達にでも話していれば良い。その時、偉いのは悩みを聞いてくれる友達の方で、相談する側ではないのだ。全くこの作者は、自分というものを何か履き違えて、甘えている。このプロ意識の低さは、現代のコミックマーケットのアマチュア作家に見られるような、弱者を捕まえて私の妄想に共感したら金を払えという押し売りそのものだ。あれは新人を応援して大成させたいという援助の遊びであり、プロの世界に入って一般に通用する意識ではない。
 そして内容が悪い。物語は少女小説家が建てた憧れの洋館で、それが産んだ種違いの三姉妹と今では味噌汁を飲んで暮らすような、理想と現実のギャップを面白がる設定なのだが、こういうものは少女漫画に良くあるもので、作者は「少女病」と言うのであるからわざと引用しているのも理解出来る。問題は、漫画は一コマの感情シーンで読者の共感を引き出すものが多い事で、これは読者の頭が幼いから通用する子供騙しであり、絵の印象をもって説得するものなのだ。重要なキスシーンを薔薇の花びらで装飾する演出などはまさにそれだ。そしてこれは文章にすると通用しない。文字は絵よりも冷静だから、洋館で味噌汁をすすれば漫画なら面白いのに、小説では変に見えてしまう。作者の頭の中には漫画の絵があって、読者の前には小説しかないのだ。これもまた自分の妄想に共感してもらえると思っているのだろう作者の甘さである。
 人物描写も下手だ。漫画から文字に起こすから、登場人物が漫画チックな阿呆臭さを漂わせてしまい、全員が「少女病」を楽しんでいるようにしか見えない。だから悩んでいる描写を書いても、結局は悩みごっこを遊んでいるようになってしまう。これで小説が冷静な目を失ってしまうから「少女病」を客観分析する事が出来なくなり、小説のテーマを見失ってしまう。これに作者は気づいていないから現実に繋がるような説明を後から何度も重ねるのだけれど、その説明がみっともないだけで、テーマが無いから面白さも伝わらない。これはつまり小説では人物の心象に迫るお話ならキャラクターを漫画のような妄想ではなくリアルに描かなければ駄目だという事だ。漫画ならどんなキャラクターにも絵の重力が働いてくれるが、小説では絵を使わずにそれを表現しなければいけないからだ。
 文章も酷い。視点が定まらないのが特に酷く、かといって神の視点というわけでもなく、登場人物の感想が入り乱れて作者まで出て来てしまう。会話も誰の台詞なのか分かり難く、時制もしょっちゅう回想の過去に飛んで戻って来るので、いつ誰が何を考えているのか掴めない。行き当たりばったりで書いている節があり、場面毎の食い違いも見られる。構成も章節の分け方も意味不明。書き方の基本のキから全く出来ていないと言える。使用する言葉は意味を間違えているとは言えないが、かといって正しく捉えているわけでもなく、例えば「植物を育てるのが悪魔的にうまかった(p.127)」のように書かれるとよく分からない。悪魔は植物を育てるのが上手いのだろうか。
 これら全ての問題は作者が漫画を意識しているのが原因だろう。絵の無い漫画なんて何が面白いのかと疑問に思うが、言葉だけで出来ると甘ったれた考えから始まっているのではないだろうか。そのくせ、小説みたいな文章を書こうとするものだから、漫画にしても面白くはなさそうだし、小説にしても面白くはないし、そういう「わたし」を分かって下さい金払えという、わけの分からないものに成っている。

 
内容。
長女 都 (49p)
 少女病だと診断された、夢を見た。長女の都(みやこ)は鍼灸師の先生に恋をしたのだ。都は家族全員の世話をしている。三女の紫(むらさき)は高校生。今年で三十の次女の司(つかさ)は真山という彼氏の漫画のアシスタントをしている。母の織子(おるこ)は本名を房子(ふさこ)と言い、芸術家気質の少女小説家。都は父親を知らない。司の父はガンで死んだ。
 いとこのユキは都の七つ下で自由奔放。彼の母親の勧めで都はお見合いすることになった。
 都の初恋は紫の父親の恭一という美しい男だ。お見合いの席に織子がやってきて台無し。鍼灸師の川上先生に優しくしてもらえて泣いた。

次女 司 (50p)
 都に彼氏ができたらしい。
 司は男にだらしない生活をしてきたが、真山に惚れてから彼の部屋に通って漫画の手伝いをしている。
 真山は漫画家をやめて結婚を考えてくれた。だから別れた。ユキが慰めてくれた。

三女 紫 (50p)
 紫はもてるが、太郎という恋人がいる。家族を大切にしてしまう都を嫁に出してあげようという話になった。
 恭一はある日どこかへ行ってしまった。孤独な紫は公園で太郎に出会った。都も紫を捨てるかもしれない。
 太郎は紫の妄想だった。川上先生の誘いを断る都の背中を紫は押した。

母 織子 (56p)
 熱心なファンレターをもらった。都が嫁に行くことになったので、残る三人で家事の練習をする。
 ユキの母親で織子の妹の香苗が来て手伝ってくれた。老いても自分勝手な母が織子は嫌いで疎遠。香苗は旦那と離婚するという。
 そうだ、香苗もファンレターの人も、みんなこの家に住めばいいんだわ。そんな母親みたいな自分勝手ができるわけない。都は小説家との不倫から生まれた。みんな風来坊のようにいなくなる。娘たちはどうか、すてきな恋を。母ともやり直したい。思い通りにいかないけれど、だから小説を書いて、修復していける。今日は都が帰ってくる。


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