村上春樹 「ノルウェイの森」

haruki.jpg四下(意味レベル):1969年日本の風刺。お話は一貫しているけれど強引。無駄な射精。
1から8(感情ステップ):セックスの快感から、好きになり、愛情を求め、我慢し、別れて、恋人は死に、絶望して、虚しい。

 
一九八七年発表、2004年講談社文庫。
著者:村上春樹、編集:講談社。
長編小説、40字×16行×595頁(上巻302+下巻293、表題4白5含む)。
構成スタイル:ドラマ調。
主張:慰安、に見せかけた批評(社会)。
ジャンルと要素:私小説(生活描写から時代や社会を表現する)、随想(作者の感想文)、社会(学生運動)、倫理(心のあり方)、コメディ(ちぐはぐな人間関係)、人情(恋愛)、青春(学生時代)、冒険(登場人物の成長を描いたもの)、官能、ほか。

 
「難解な小説」
 この小説は、1969年学生運動時代の若者の青春を空想的に描いた作品である。冒頭では事実が現実的な描写で、精神が空想の体験で描かれるが、それは徐々に混ざり合っていって、確かな感覚が次第に分からなくなる。最後には切ない印象と共に、主人公は自分が今どこに立っているのか、わからなくなっている事に気付く。テーマは現実感の消失である。
 冒頭の「多くの祭り(フエト)のために」とは、わざわざフランス語でルビを振り、1969年の祭りという物語の設定からも、左派と右派の闘争の事を言っているのだろう。登場人物は学生なので学生運動に限定出来る。主人公は、当時ほとんどの学生がそうであったように、特別な思想派閥に属す事無く、斜に構えた態度で社会を眺めている。よく勉強し、受けに徹する柔和な姿勢で、他人を大切にする優しさを言い訳にして、責任を放棄する。つまり、敵を作らず、誰ともぶつかり合わない。そうして出会った直子というヒロインに対して、ようやく社会的責任を持とうと決心するのだが、ただ待つしか出来ない主人公のやり方では確かな手応えを得られない。直子も他の登場人物も互いに共感しながら、この空虚に悩んで、どうする事も出来ない。「傷の舐め合いばかりしている」と世間から嘲笑された、弱く優しい者たちの悩みである。
 この小説を難解にするのは、作者が執筆にもこの姿勢を持ち込んで、はっきりした結論を出さない事にある。主人公の青年がはっきりしないように、この作品もはっきりしない。わざとはっきりさせない。空想と現実を混ぜこぜにして、個人の心と社会の問題も曖昧に混ぜる事で、結論の出ない悩みの世界を表現しているのだ。この世に生まれてしまった人は誰しも悩むものであり、一個の悩みは解決が出来得るとしても、生きているだけで自然に悩みも生まれ続けてしまう。人生と悩みは切り離せないと言い換えられるかもしれない。もし主人公をはっきりさせてしまうと、彼の抱える悩みに決着を見出せてしまい、小説はすっきり終わってしまう。作者が表現したいのは、尽きない悩みの世界なので、小説の世界を解決させてしまったら成立しない。つまり小説をわざと曖昧にする事で、読者に解決策を与えず、作品の悩みを深いものに見せかけているのだ。
 これを物語の結末に書かれる「現実感の消失」と重ねて小説の全てを解らなくしてしまう。1969年を描くという事は何かしら政治思想の暗喩が込められているはずだと心構えて読んだとしても、何がどこに作用しているのかも解らないし、作者がどの様な思惑を込めているかも読み取れない。序盤に登場する突撃隊と呼ばれるルームメイトが右翼の象徴として描かれていると読んでも、現実感が消失してしまえば、それが何の暗喩なのかも解らなくなる。作中では海外の小説や流行歌の題名を散りばめて、暗喩的引用をほのめかしているが、これらは全て作者の用意した罠であり、意味は無い。題名を並べているだけなので、正確に言うと無意味ではなく、作者は後から意味をこじつける事も出来るし、読者は無視する事も出来る。追究すればする程、解るような解らないような、作品にモヤが掛かって意味が深そうに見えるよう作られているのだ。しかも作中には確かな問題が書かれていない(何かよく分からないものを悩んでいる)から、小説を読んだだけでは意味の解明が出来ないようにも成っている。それは、悩みの森に迷い込んでいるかのようだ。
 この小説では、この掴みどころの無さが1969年の青春だったと言うわけだ。後には悩みだけが残り、現実問題は消えている。それとすり替えられた切なさに共感が出来る人はこの小説を賞賛するだろう。自分のよく解らない悩みを、慰めてもらえた気分で、思い出味のワインの摘まみにして飲み込めるのだ。
 
「ノルウェーの幻想的な森」
 では、その森に迷い込もう。どこにあるのだろう、その切ない森は。なんとそれは日本にあると言うのだ。そして、どこにも無いとも言うのだ。
 物語はThe Beatlesの『Norwegian Wood (This Bird Has Flown)』という曲から着想を得ている。邦題は『ノルウェーの森』である。その歌詞は、ヤらせてもらえると思って女の部屋に行った男が、ヤらせてもらえずに朝を迎えるというもの。これのどこが「ノルウェーの森」なのかと言うと、実はどこにもノルウェーの森は無い。本当は「ノルウェー産の家具」であり、「ノルウェーの森」は翻訳者自らが認める誤訳だというのだ。その意味を詳しく見ると、男を誘った女が自分の部屋のノルウェー産の安い松材の内装を「良いじゃない?」と言うのに対して、相手をしてもらえなかった男が翌日その部屋に火をつけて「良いじゃない?(よく燃えて)」と言うジョークである。
 ところが、ファンは熱心である程それを受け入れられなかった。あのビートルズが浮気をしに行った女の部屋を燃やすなんて、情けない詩を作るわけが無い、これはきっと何かの暗喩に違いない、と悩み始めた。日本語訳では最初から「森」として紹介されていたので、不可解で高尚な雰囲気が先行して、こちらの方が魅力的にさえ見えた。それで『Norwegian Wood』は日本では「ノルウェーの森」のまま、本当は存在しない森を幻想的に思い描いているというのである。
 小説の作者はこの点に目を付けた。彼は『Norwegian Wood』が「Knowing she would」(ヤらせてくれると思ってた)の語呂合わせだという説を紹介しているので、誤訳に幻想を抱いているファンの状況を見抜いていて、これを小説の題材に選んだ。主人公はヤらせてくれる女性を求めていて、虚無に苛まれる美少女の直子に、一度だけヤらせてもらう。その後、彼女は精神療養のために山奥の施設に入ってしまい、主人公は彼女を追い掛けて行くのであるが、この森の精神施設がすなわち幻想的な「ノルウェイの森」であり、歌詞の「her room」にあたる。主人公は精神的にも彼女と結ばれたいと思って彼女の部屋へ行くのだけれど、その願いは叶わず、肉体関係もお預けを食らって、遂には直子への愛を諦めてしまう。直子は原曲の「her」と同じく主人公を満足させない女として用意された幻想であり、それなのに主人公は彼女と幸せになる夢を見て、いつの間にか現実が分からなくなっていた(彼女の森に本当にいたような気分になった)という結末に至る。
 直子や森の施設が具体的に描かれる事によって、何が現実で何が精神なのか、読者も分からなくなる。例えば『Norwegian Wood』の歌詞の中に一行でもノルウェーに関する描写があったなら、諸説は一転して森は存在するんだと思えてくるだろう。小説においても、直子が具体的に生息する描写があれば、幻想的な直子の虚無の悩みもまた実在するかのように思えてしまう。すなわち、ありもしないノルウェーの森を信じるビートルズのファンと、虚無に悩む二十世紀後半の若者たちを、重ねて見ているのだ。だから直子がいなくなった最終章で、主人公は我に返り、自分は今まで森の中にいたつもりだったのに、一体どこにいるのか分からなくなってしまうのだ。そして虚無(現実感の消失)に悩んでいたのは直子なのに、いつの間にか主人公が悩んでいる。つまり詩や小説を読んで、その内容と自分の実生活とは関係が無くとも、現実にある問題かのように受け止めてしまう当時の若者たちを風刺しているのである。
 その悩みは本当にあるのか。幻想の美少女を求めるのと同じように虚無ではないのか。本当はただ女の子とヤりたい事くらいしか悩みは無かったのではないか。1969年に多くの若者は社会を問題だと訴えたが、その森(社会)はどこにあった。みんなは一体どこに迷い込んでいたのだ。そう、この小説は言う。しかしその幻想の森はあの時代、確かに日本にあったのだ。
 
「やれやれ、僕は射精した」
 ここまでを理解すれば、もう小説の言葉一つまで詮索する必要は無いだろう。直子が左翼運動の女神であるとか、彼女を助けるレイコがヒッピーの代表だろうとか、冒頭の井戸には『星の王子さま』の共産主義的意味合いが有るかもしれないとか、無いかもしれないとか、そんな風に考える事が幻想の森に迷うという事なのだ。作者の撒いた餌であり罠である。そこまで練り込まれて作られたこの小説は傑作と呼べるのではないか、という事で、その出来についても見ていきたい。
 気になるのは主人公がセックスしかしていない点だ。これはこの小説の大きな特徴で、何度もしつこく、詳しい描写で描かれるので、読者からはエロスを主軸とした風俗小説なのではないかと疑問を持たれる。前述した通り、若者たちの悩みはそれくらいしか無い、という作者の社会観と、『ノルウェーの森』の歌詞を掛けているものだから、ちゃんとした理由はあるのだが、読者にそれが伝わらないというのは、小説の存在意義には大きな失敗と言えるだろう。作者の主張するように、確かに若者たちは幻想の森を追い求めていたのかもしれない。しかしそれは女の子とセックスをすれば解消されるような悩みでは無いのだ。君とセックスが出来たからマルクス主義なんてどうでも良くなっちゃって、と言ってしまえるほど森(社会)の魅力が無かったのであれば、小説の描き方は正しいだろう。しかし若者たちには、むしろ女も恋愛も青春の森の中の一部だったのだから、セックスだけをしている主人公を見せられてこれが社会問題だったと言われても、ほとんどの人は納得出来ない。小説では直子が消えると共に森の現実感を失ってしまうが、本当は女が消えたところで森は消えないはずなのだ。
 直子が消えるために用意されたヒロインというのも疑問を残す。これも『ノルウェーの森』の歌詞の通りではあるが、原曲の詩では次の日に仕事があるから女は出て行くので、むしろ社会の労働者として現実的であり、置いていかれた主人公こそ反社会的に浮ついた立場だと言える。小説では直子が社会生活に馴染めない者たちの療養施設に入っていて、主人公が社会に戻そうと努力するので、立場が逆転している。仮に直子がずっと生きていると、主人公の生活の足を引っ張り続けてしまい、彼女を現実に助けようとする主人公の社会性は強くなってしまう。作者は、主人公が強く社会性を持っているようで、その心は浮ついていて、結局その社会性も幻想なのではないか、という小説にしたいのだから、どこかで主人公を駄目にしなければならない。そこで直子の死を使って主人公に傷心の旅へ行かせ、現実感が無くなったと言わせて、一気に社会性を取り上げるのだ。このせいで直子は何だか無理矢理に自殺させられてしまい、何を悩んでいたのか分からなくなってしまう。
 だから十一章で突然に自殺していた事にされる直子の動機は、読者はそこが知りたいのに、明確にされない。彼女がふっと消える事で、訳が分からないから主人公は彼女の森を迷い続ける事が出来るのだ。これにより消えてしまうヒロインの人間味にも問題はあるが、読者も何だか空想の世界に迷い込んでしまって、いったい何だかよく分からないが切ない感じがするような気がすると、そういう感想しか最後には残らない。この切なさに共感出来ない人には、この小説は全く面白くない。無意味に見えてしまうのだ。
 それでしばしばこの作者の作品は「やれやれ、僕は射精した」と一言で揶揄される。すなわち悩みながらセックスする事しか書かれていないから、素直に文面を読めば正にそうなる。幻想の森は無いのに存在した、というテーマのために、意味が有るのだか無いのだか分からない小説が出来上がってしまったから、読者には行為を行為としてしか見れないのだ。『Norwegian Wood』では行為が出来なかったのだから、方々でセックスをしても心が満たされない主人公という設定は、完全に村上春樹のオリジナルである。どうして作者はこんなにセックスに拘るのか。書かなくても良いのに書くのか。書かない方が良いのに書きたがるのか。それは作者にしか分からない。
 結局、この作品は作者の射精ではないのか。社会を自らのエロスの目で解けると思っているのではないか。そう問われたら返答が出来ないところはこの作品の大きなマイナスだ。これを書くページがあるなら別の事を書いた方が良い。もし読者がこれで興奮してしまって、実に気持ち良い森だったね、と晴れやかに言われたらお仕舞いではないか。


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