小保方晴子 「あの日」

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一(意味レベル):断定出来る論旨と結論が無い。
1から5(感情ステップ):研究職を得た喜び、発生学への興味、成功を求めて、裏切り合いの世界で、最後は孤独。
 
2016年。
著者:小保方晴子、編集:講談社。
小論、42字×17行×253頁(目次2含む)。
構成スタイル:サスペンス形式、並びに散文。
主張:STAP細胞論文問題の記録、懺悔、弁明、及び攻撃(著者を貶めた人への仕返し)、洗脳(問題のすり替え)。
ジャンルと要素:ノンフィクション(STAP細胞論文問題)、私小説(2000年代博士の活動)、随想、推理(捏造疑惑の真犯人について)、社会(研究組織と社会性)、科学(発生学の現象)、道徳(報道と人)、ゲーム(論文の有名雑誌掲載に関わる駆け引き)、ほか。

 
「STAP細胞論文の捏造問題への弁明」
 本書は、2014年に理化学研究所の研究員ら(著者を含む)がイギリスの科学研究雑誌『Nature』(ネイチャー)に投稿して掲載された『Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency』(刺激によって多分化能へと変化する体細胞の転換)と『Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency』(多分化能を獲得して再構成される細胞についての双方向的に発生する可能性)という二つの論文に掛けられた疑義に触発されて世間に沸き起こった本著者への批判に対して、論文の代表著者として自ら釈明する小論らしい。論文に紹介された万能細胞はその著者らによって「Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cells」(刺激惹起性多能性獲得細胞)を略して「STAP細胞」と名付けられているので、この騒動は簡略して「STAP問題」などと言われている。
 分かり易さのためにざっくりと説明するなら、前者の論文は「細胞をイジメてみたら万能な奴に進化した」というもので、後者の論文は「そいつは最強に万能だ」というもの。これに対して世界中の研究者が「そんなふざけた話があるか」と嫌疑の目を向けたので、当初は内容も知らずに発表を喜んでいた一般人らも「騙された」と著者を非難する声を上げるようになり、遂には社会問題にまで発展した。そして、この事件について著者はこの本をもって一般の認識だけを変えたいようなのだ。すなわち、「私は悪かったけれど悪くない」と世間に訴える、不思議な内容になっている。
 著者の研究は杜撰で悪かった、けれど悪いのは著者の周囲の人間であり著者自身ではない、と言うのだ。
 
「STAP細胞はあるのか」
 この本を手に取る読者の一番知りたい情報は、STAP細胞というものが実は有るのか、やはり無いのか、あの疑義の核心であろう。この事について著者は、記者会見の場で「STAP細胞はあります」と断言したものの、本論においては書かれていない。そして本書が発表された2016年現在においては、問題の論文に書かれた論証は捏造されたものである、という調査結果で社会的には結論されている。つまり、STAP細胞は存在しない。という状況は揺るがない。
 では、本書には何が書かれているのか。その論旨は、著者の発生学への研究姿勢が誠実であり、それを疑う世間の認識の方が間違っていて、それでも実験が捏造であるなら共同研究者の若山照彦が怪しく、社会問題化したのは理化学研究所の幹部のせいなので、マスコミを筆頭とする世間から著者へのバッシングは不当であり、苦しい、というものである。
 繋げて読めば時系列の上で関連があるようにも見えるが、著者の研究への誠実と、共同研究者への疑惑と、所属組織の幹部への責任転嫁と、マスコミの仕事への不満の、各々は別の問題であり、一貫する内容は著者の苦境しかない。研究所の責任はマスコミの責任ではないのだ。しかも、ただ苦しみを訴えたい訳でもないらしく、問題の疑惑をほのめかしたりするので、結局は著者が何を言いたいのか分からない。
 STAP細胞の存在を証明する訳でも、捏造だと結論された事に反論する訳でもなく、本論の問題はすり替えられてしまうので、苦しそうな著者を見るための本だと割り切って読むしかないだろう。
 
「STAP問題の問題」
 ここまでを踏まえて、本書の小論について細かく見ていく。
 まずは本書からSTAP問題と関係しない著者の言い分を片付けてしまおう。第一章では研究職を志した理由に小学校の同級生が小児リウマチだった事を挙げている。しかし著者はリウマチの研究は目指さない。高校入試では第一志望に合格出来ず、早稲田大学にAO入試で入学。本書の執筆が丁寧である事からみても学力は上級にあるが、試験を正面から突破する事は出来ない性質のようで、以後の経歴も全てイレギュラーなアプローチを(悪く言うと組織の裏口から潜入を)試みる。全ての目的は研究をしたいから、ではなく、研究者になりたいから。第二章では懇親の酒の席でハーバード大学の小島宏司に留学の約束を取り付ける。後に世間は若い女性である著者が中年以上の男性達から過度な支援を受ける様子に、色仕掛けがあったのではないかと、邪推するようになるが本書ではそれに関する言及が一切無いので分からない。それどころか、度々のアメリカへの渡航や当時の会話、また日々の研究内容についても読者から真偽の追及を出来ないので、読んでいて感じる違和感から見つけられる真実も無いし、本書は真実を担保にしない著者の随想と捉えるべきだ。すなわち、事実に関しては何も分からない。
 第三章ではチャールズ・バカンティ教授に取り入り、第四章では理研CDBチームリーダーの若山照彦に、第六章では同所副センター長の笹井芳樹にと乗り換える。その都度、上司に合わせて研究論文のテーマを変えているのも特徴で、どの研究チームに所属しても研究成果をまとめ上げる前に他へと移ってしまうので落ち着かない。最初から成果より肩書きを求める姿は相当な野心家であると思われる。押しかけて居座り就労実績を作るという著者の一貫したやり方は危険で、特に理研若山研究室への所属はSTAP問題の根源であると言える。部外者であるにも関わらず、入室管理キーを開けてもらってマウス実験をするのは、理研のコンプライアンスにおいて重大な問題であり、後にそこから著者をユニットリーダーに採用してしまう笹井副センター長の責任は深刻だ。仮にSTAP問題が起こっていなかったとしても、研究成果も無く所属の落ち着かない部外者が国の独立行政法人の資産を自由に使っていたこの事実だけで、厳しく懲戒されるべき案件である。この時点で既に駄目だった。
 第十五章では、一度は授与された早稲田大学の博士学位を適切な指導も無く取り消した事について不当であると言及しているが、この主張は正しいと言える。理研も早稲田大も、試験を緩和して「ならず者」を入れてしまい、適切な指導が出来ないまま肩書きを与えて社会に放ってしまった責任を取るべきであろう。他方、著者は体調不良を理由に審査の延期などを求めて却下されるが、体調が不良な時点で失格であるのだと自覚すべきだ。総じて、関わった全員に厳格が足りない。そういう所ばかりを狙う著者の悪意にも問題があるし、狙われた組織にもまた問題があったと言えるだろう。
 
「STAPサスペンスの解決」
 では、STAP問題の解決を考える。
 この問題に対する解決方法はたったの二つに絞られる。STAP細胞論文が捏造ではないのなら実験を再現すれば良いし、捏造であるならば著者本人がそれと認めれば良い。捏造かどうかを著者本人は知っているはずなので、解決の道は一つしかないとも言える。ところが本書にも書かれている通り、再現実験は失敗に終わったのに、著者は捏造を認めない。これがこの問題をサスペンス化してしまった原因だ。著者は自分の未熟な論文を上司が大々的に発表した事が社会問題に発展した原因であると言うが、マスコミ報道が過熱したのはサスペンスの魅力に取り付かれたからであり、著者も早い段階で弁護士を雇って理研組織を糾弾する記者会見などを開いたりと世論を煽り、この事件の被害者はむしろ理研であると言えよう。
 問題の構造は単純である。サスペンス風に説明すると、理研という社会から隔絶された密室があり、登場人物は著者の小保方晴子、研究パートナーの若山照彦、上司の笹井芳樹、相澤慎一、丹羽仁史、他に研究ユニットのメンバー数名がいる。そしてその中の誰かが、STAP細胞と名付けた新開発の商品にES細胞という毒を混入させた。さて誰が犯人かというのである。問題が明るみに出たのは、著者が論文を書き、その論文に捏造の嫌疑が掛けられ、所属組織である理研が責められたからだ。そして、責める側に何故か著者が加わっている。ここだけを見ても異常な行動をしているのは著者一人である。責められる側であるはずの著者が責める側に回っている理由が謎であるし、そもそも著者が存在していなければ問題すら起こらない。ここで世間から犯人を特定しろと声が上がり、理研の調査委員会はまるで検察のような立場で厳密な科学捜査を行い、著者小保方を捏造の犯人だと特定した。これに不服の著者は本書で、真犯人は若山ではないかと匂わせ、社会問題化は笹井のせいであるとし、相澤らの追及が厳しくて苦しいと文句を言い、私にはES細胞を混ぜる機会と意義が無いと訴え、調査委員会の捜査も結論もでっち上げだと息巻く。ここでも異常な行動を取っているのは著者一人である。
 本書だけを読んで解決を導くのに決定打となるのはやはり「論文」の存在であろう。何のために論文を科学雑誌に投稿するのか、といえば、科学者としての名前を上げるためだと本書に書かれている。そこから、登場人物の中でこの論文を捏造してまで科学雑誌に載せたい野心家は、論文の著者として名前を連ねる、小保方、若山、笹井の三名に絞られる。本書の著者小保方は、若山が怪しいと言う。若山は小保方の単独犯を主張し、世間は後に自殺をした笹井と小保方の共犯説を推して、サスペンスは盛り上がった。しかし事実はフィクション小説より解り易く、三人の「論文」に対する姿勢の違いが決定的であった。
 若山と笹井の二人は研究結果に有頂天になって、論文に最初から関わっていた訳ではないのに連名にしてくれと割り込んで来ると、大々的に発表しようと強引に計画し、なんと周到に特許まで取っている。逆に小保方だけが論文の反響が大きくなる事を心配している。「論文」は反響が大きくなる事を目的として書かれるものだから、間違いを事前に分かっていない限り、消極的になる事は無いのだ。特に笹井はSTAP実験が捏造された後に加わっており実験そのものに関わっていない。何より雑誌に論文を載せた事が無い小保方と違って、若山と笹井の二人はSTAP細胞がiPS細胞を超える絶大な社会影響をもたらす事を知っており、だから喜んでマスコミを通じた大発表をしたのであり、これを捏造したら世界中で研究されて絶対にバレると分かっている。これに対して小保方の目標は最初から、世界的に影響のある研究をする事ではなく、研究職の椅子を手に入れる事だった。『ネイチャー』に論文が載れば理研に確固たる居場所が出来て、それで良かったのだ。
 第五章p.104ではSTAP細胞の発見から若山の様子がおかしくなり、「(STAP細胞に)強い執着を感じるので小保方さんは気をつけたほうがいいと思う」と研究員から助言されたり、若山本人から「僕ばかり成功してごめんね。フフフ」と言われ、違和感を覚えたと書いてある。著者小保方は若山が野心に狂ってSTAP細胞の捏造をしたのだと言いたいようなのだが、逆にこれをもって若山がSTAP細胞の存在を本気で信じていた事が分かり、その絶大な影響力を理解しているからこそ、おかしくなっているのが分かるのだ。ノーベル賞を超える発見をした(と思い込んでいる)のだから、おかしくなるのも当然だ。むしろ、おかしくならない者がおかしいのである。
 また、第十三章と第十四章では、自分を犯人だと決め付けて追い込んでいく検証実験に対しての苦しさが綴られているが、この検証実験は小保方を助けるために行われたものであった。検証の段階で調査委員会はES細胞混入の形跡から捏造の判定を出していたのに、世間から理研への疑念が晴れる事はなく、理研が小保方を処分(トカゲの尻尾切りと小保方談)して真相を隠蔽しようとしているのだと噂が止まないので、莫大な実験費用を使って実証の機会を作ったのだ。これは本来、喜ぶべき状況であり、苦しむ状況ではない。いつも通りの実験場にて何度も挑戦し、たった一例でも再現が出来れば、小保方も理研も論文捏造の嫌疑が晴れて名誉を回復出来るという大逆転の可能性に望みを賭けて、関係者の全員が成功を願う機会であっただろう。本書にも内部から小保方を応援する声があったと書かれている。そして、本書ではその期間が苦しくて体調不良を起こし実験がままならなかったと弁明しているが、残念ながら苦しいと言う事こそが実験の失敗を確信している証明になってしまうのだ。
 以上は本書を読んだ限りの推理であるが、密室の中でES細胞を実験中に混入できたのは小保方と若山の二人であり、そして若山には捏造をする動機が完全に無いため、犯人は小保方晴子その人以外にいないという事になる。
 
「ごめんなさい、ありがとう、うらみます」
 最後に本書の出来について。
 短い文章を取り上げてみると、丁寧で綺麗である。段落毎に著者の言いたい事がきちんと書かれていて、言葉使いも正しい。しかし長い文章になると、何が言いたいのか分からなくなってくる。STAP問題を起こしてごめんなさい、そんな私を助けて下さってありがとう、あなたのせいで苦しくなりました、という流れでこれが謝辞なのか恨みなのかさっぱり分からない。著者による他者の人物評も大体、素晴らしい先生で尊敬しています、先生のせいで問題が起きました、私が悪くて申し訳なく思います、私が悪かったのでしょうか、という具合に何が言いたいのか分からなくなる。おそらく、誰からも気に入られたい一心で誰でも褒めてしまう癖が著者にあって、批判文だというのに対象を賞賛してしまうのだろう。著者が疑う「若山先生」に対しては矛盾が著しく、「素晴らしい先生だ」と褒めるのに、ES細胞の混入マウスの問題は若山にある、と素晴らしいのか素晴らしくないのか著者の感想が分からない。意味の通りを良くするためには、対象を無闇に褒めてはいけない。
 また十五章立ての小論としての最大の問題は、意味のすり替えが行われている事で、疑惑の論文は自分の勉強不足から起こったと謝っているのに、その後に自分は悪くないと主張する。反論をするための小論であるならこれも無闇に謝罪してはいけない。辻褄を合わせようとして、論文資料の流用は自分が悪かったがES細胞の混入は自分のせいではないので悪くない、と言ってしまうから小論の論旨がすり替わってしまう。例えES細胞の混入が他者のせいであったとしても研究が杜撰であった事に違いはなく、総じて自分が悪いのか他者が悪いのか、著者としての主張をはっきりさせるべきだ。一般的に考えて、仲間の失敗まで責任を取れないようではリーダーとしては失格だし、論文作成を他者に依存した時点で研究者として失格だ。研究資格を剥奪されるという今回の結末は責任の取り方として妥当と言える。
 そして本書に小論としての結論をしっかりと書いて頂きたい。最後は研究の道が閉ざされて残念な気持ちを匂わせて終わってしまうが、若山が悪いと言いたいならちゃんと「若山が悪かった」と締めくくるべき。問題について解明する小論なのだから「この問題に対して」「この論拠を持って」「この人間に責任がある」と、匂わすだけでなく、言い切らなければならない。
 総じて、論旨、内容、結論と、論文に必要な全てがグダグダしている。そういった「文字を書く責任」を負わずに、適当に褒めて適当に謝っておく姿勢が、STAP細胞の有無以前の問題として学者になる要件を満たしていない。

 自分が苦しいとか、あの人が偉いとか、この期に及んでそんな事を書いてしまうような人間だからこそ駄目なのだ。著者を信じたかった者も、彼女の志した理化学を貶めないよう心を鬼にして、はっきりと見限るべきである。


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